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沖縄本土復帰 50年

沖縄本土復帰  50年
太平洋戦争を、ポツダム宣言に唱われた「無条件降伏」という形で受け入れた日本。ミズーリー号で調印を終えて、連合国の要求通り「沖縄」はアメリカ合衆国の占領地となった。私達は、戦争に負けたのだから国の一部を占領地として差し出すのは当然だと思っていた。卑屈な精神構造からではなくて、国家間戦争というものの持つ性格上、有りうることだと思っていた。戦勝国の当然の権利だというのが世界中の認識だった。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、勝利を重ねてきた大日本帝国はそれなりに敵国から領土を奪い、当然のように占領して好きなように搾取してきた。今度は骨の髄までしゃぶられ搾取される立場だという覚悟はあった。(私は1949年(昭和24年生まれのアプレゲールである。両親の話と学んだ歴史から想像するのみである。)日本に帰ってきたのは1972年(昭和47年)5月15日です。沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本に帰ってきた。何が変わった? 通貨がアメリカドルから日本円に戻った。パスポートの発行が沖縄米軍高等弁務官から日本国政府に戻された。それまでは沖縄から日本に来るのにもパスポートが必要だった。そしてその発行に対しては在沖縄米軍の厳しい審査があった。
書き記すことはないのですが、あくまで誤解のないように記述しておきます。話し言葉も書き言葉も日本語でした。 返還当時私は医学部の5年生だった。国家的大事業であり、返して貰えないと考えている国民が多かった中での返還だった。交渉をしたのは佐藤栄作首相であり、彼はその功績でノーベル平和賞を受賞した。それほどに世界中から驚きと称賛で迎えられた返還事業だった。沖縄は27年間のアメリカの占領から解放された。
 こんな事を今更書き始めたのは、NHKの朝の連続テレビ小説で沖縄を舞台にした「ちむどんどん」の放映をしているから触発されたのである。
ヒロインの比嘉暢子(黒島 結菜)は沖縄本土返還の日に沖縄から本土(東京)に飛び立つ。この時の流通貨幣はどちらだったのだろう。ドルで賃金を支払っていたが、長男から送られてきたお金は日本円だった。高等弁務官が発酵するパスポートは必要だったのだろうか。それとももう必要なくなっていたのだろうか。枝葉末節的なことを物知り顔をして詮索している時、前田武彦(マエタケ)のこんな発言を思い出した。夜のヒットスタジオの司会をしている時(?)だったかな、返還される沖縄のことを話題にしていて彼は真面目にこう聞いた。「沖縄って日本語を話しているのですか?それとも英語ですか?」人気絶頂のテレビ番組司会者の余りな幼稚な質問に「何言ってんだ。こいつは」と思った。元々失言の多い、軽薄さの免れない奴だったが、「十八番がしれる」と思った。思いっきり軽蔑した。
 勿論、医学部の同級生に3名の沖縄からの留学生がおり、話をする事も多く親しかった城間君から色々聞いてはいたから事情をよく知っている大学生ではあったが、マエタケの発言には呆れかえった。
 同級生の3名は身分証明書としての査証(パスポート)を持っていた。見せて貰うと「沖縄高等弁務官」の印鑑が押されていた。日本ではなくて「アメリカ合衆国」の占領地である事を肌で感じさせられた。勿論返還後は無用のものになったであろう。確認はしていない。
学生時代は70年安保の前後であり、学生運動が日本中の大学を席巻していた。大学のみならず日本中が日本の進むべき道に対して、ケンケンガクガクの議論をしていた。口角泡を飛ばして論じ立てていた。反米的な考えの幅を利かせていた。戦前の「鬼畜米英」ではないが、「米軍基地闘争」「ベトナム戦争反対闘争」を叫ぶ若者は時代の寵児であった。みんなアメリカに憧れているのだが、矛先をアメリカに向けていた。アメリカは反共の砦で有るべき日本が、万々が一にでも「反米政権」が出来ることを恐れた。それを回避するには沖縄返還をすべきか、それとも返還をした日本に反米政権が出来たら大変だ。実に粘り強く交渉をしましたね。密約もあったと想像する。きれい事では済まない。今でも戦後日本の歴史の中での大金星だと思っている。アメリカの懐の深さに日本人は心酔した。
 それでも、大戦中は、沖縄に負担をかけた。大きな犠牲を払わせた。その償いの御心から平成天皇は退位までに沖縄を11回訪問された。今上天皇もこれまでに5回足を運ばれた。50周年の記念式典で陛下は沖縄の人々の多くの苦難を「決して忘れてはならない」と述べられた。

タイトルの「ちむどんどん」とは、沖縄方言で「胸がわくわくする気持ち」を表す言葉です。
「やんばる」とは「山々が連なり、鬱蒼とした常緑広葉樹の森が広がる地域」という意味を持ち、具体的には沖縄島北部を示す言葉です。
それでも、今は日本国の当然の一部であり、その帰属に異論を挟む者はいないが、新聞紙上に沖縄返還の記事が輩出し始めた頃には、夢物語だと思っていた。

50年前、日本中のあちらこちらにマグマのように異端の考えが暴力による共産主義革命を主張する沢山のゲバルト組織が噴き出していた。その一つが「日本赤軍」によるテレアビブの空港襲撃事件である。1972年5月30日のことである。イスラエルの人達もビックリしただろうね。反目しているイスラム教徒による襲撃事件ではなく友好的な間柄で有る日本の政治組織が起こした事件である。26名の犠牲者が出た。首謀者の岡本公三以下3名は逮捕されて日本に送られた。嵐も過ぎ去ったと思っていた1977年、バングラディッシュのダッカで日本航空の飛行機がハイジャックされた。犯人の要求をのんでテルアビブ事件の容疑者は釈放され、岡本公三は今もレバノンで暮らしている。日本赤軍の指導者重信房子はこの5月28日、刑期を終えて出所する。シンパはかなりの数がいるようで有る。
私の立ち位置は「ノンセクトラジカル」
そんな時代だった。「混沌が我々の歴史を創る」というのは、八百津高校時代の恩師、今井春昭先生の言葉だが、真にその通り時代は混沌としており、私達が時代を世界を変えていくのだと思っていた。「タカさんの政治姿勢は?」と聞かれたらこう答えるのを常としている。「私はノンセクトラジカルです!」
根本思想は「保守政治はカラダになじまない。新しいものを求める」
「社会党の何でも反対は理論には与しない」「笑顔を振りまいて武力革命を党是とする共産党は信用出来ない」
しかし、「造反有理をモットーとして武力革命を厭わず、セクト間のゲバルトに明け暮れる全共闘に近親感を持つことは出来なかった。
私達が日本を変えていくのだという意気込みだけはあった。青森県で始めて行われたフランスデモやジグザグ行進デモには参加した。大きく報道され、参加者の1人として高揚感を抑え切れなかった。身体を張って自分達の意志を行動で示すことの素晴らしさを味わった。考えてみれば怖いもの知らずの無鉄砲な(ある意味天衣無縫でもあった)軽はずみな行動であった。勿論親には内緒でした。
最も危ない「山岳部」、最も嫌われた「学生運動」
クラブ活動では「体育会系サンガクブ」に所属し、思想では内ゲバ・学園封鎖で名を轟かせた「全共闘」で活動していると分かったら今度こそ学生生活を止めさせられる可能性が大である。

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