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災害医療を考える(山岳JMATに参加して)2017年10月29日更新

山岳JMATって知っていますか?

 

 私は、開業医ではあるが、災害医療なんて何も知らない、関心を全く持たない謂わば「ノンポリ的な医者」である。そのの私の基に「岐阜県医師会 山岳JMAT設立準備委員」なる組織から招聘状が来たのが2016年(平成28年)の1月頃だと記憶している。DMAT或いはJMATという名前は医師会の講演会などで聞いたことがある。しかし中身は詳しくは知らない。ならば、[山岳JMAT]とはなんぞや?

そもそも、なぜ白羽の矢が私に当たったのだ。常に発言を控え、目立たぬようにして診療を行い、医師会活動も参加を控えてきたはずだ。仕掛け人は分かった。各務原で開業する山岳部同志の野々村の采配だった。小林県医師会長に彼自身が参加を求められ、そして人選を求められた。そこで[加茂医師会の佐藤」も誘いましょう。考えるより先に行動するタイプで、山岳部員あがりという範疇で選ばれたのであろう。命の恩人の野々村先生の依頼とあらば断れない。

「山岳JMAT」という組織は全国でも岐阜県医師会が一番最初に立ち上げた組織のようである。その栄えある組織の一員に加えて頂いたのであるから、出来うる限りの協力をするつもりである

 

 註 1

災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team  DMAT)

災害派遣医療チームとは、災害急性期(発生後48時間以内)に迅速に展開し、応急治療・搬送・トリアージなどの災害時医療をはじめ、被災地内の病院支援などの活動を行える専門的な訓練を受けた医師、看護師、業務調整員(薬剤師・診療放射線技師・臨床工学技士・臨床検査技師・救急救命士・理学療法士・作業療法士・社会福祉士・コメディカル・医療事務員 等)で構成される医療チーム

註 2

日本医師会災害派遣医療チーム(JMAT)

JMATとは、日本医師会が被災地に派遣する災害医療チーム。東日本大震災においては、医師1名、看護職2名、事務職1名でチームを構成。岩手・宮城・福島・茨城県の被災地で病院・診療所の支援、および避難所や救護所での医療に従事する。DMATに引き継いで災害医療を長期間に亘って担当していく。

 

註 3

命の恩人  野々村先生(通所N氏)のことは、目下書くべき事を懐で暖めている所である。乞う! ご期待

 

2016/02/11(建国記念日)

山岳医療の関する医師養成講座事業  設立準備委員会。

何の知識もないまま出席する。

高山日赤 白戸先生・・・日赤では年間20例ぐらいの患者

            岐阜県全体の山岳医療の統計を知りたい

岐大穂高診療所(奥穂高と涸沢岳の白出のコル)

           (昔は2内、2外科、いまは脳外科が、担当)

 

02/27(土)  医師養成事業開始式

          山岳JMAT 発足式

県医師会で開催される。6階の会議室は満席です。

日本医師会の常務担当理事の白戸先生も来てみえた。弘前大学出身

シンポジウム・総合討論

テーマ「御嶽山噴火災害を振り返って」

木曽医師会の原先生

「御嶽山噴火災害に対する木曽医師会の活動報告」

ショッキングでした。思わず身を乗り出しました。

遺体は火山灰で傷んでいたが、水が不足していた。洗うことが出来なかった。

50数名の遭難死を検死した。心肺停止状態は死亡としてはいけない。医師の最終確認がいる。死亡ではなければ、蘇生をすべきなのか。医師でないと死亡診断書が書けない。等など・・。

海上保安庁、東京消防庁と協議してある程度の「指針」がある。山岳に関してもそれに準ずるものを作って欲しい。造りたい。

検死に時間が掛かった。信州大学の法医学の教授には最初断られた。

確認にはDNAが用いられた。運搬方法にも混乱があった。

遺体の中には、大腿骨の骨折以外に損傷の見られない遺体も結構有りました。直接死因は低体温症による凍死です。

そりゃ!かわいそうだよ。惨いね。

私達が立ち上がって、組織を作って次回に備えて万全を期さなくてはいけない。

註 4

御嶽山は、昭和54年(1979年)秋に最初の噴火がありました。この時、野々村君と私は大学山岳部のカラコルム遠征隊に参加していましたので、詳しくは知りません。帰国後噴火があった事を知りました。個人の歴史で言えば、35年も前の事です。記憶は薄れてしまっています。しかし地球の歴史からいえば、ついさっきの事です。次の噴火はいつあってもおかしくない。そして、1979年の噴火以降御嶽周辺では地震と噴火が続いている

 

私見 その1

大切なことは

何が起こるのか分からないほどに自然は危険である。何事もない秋の快晴のお昼に突然、それこそ晴天の霹靂(霹靂とは雷のこと)のようにして偶発的な自然現象は起き、大事故となる。全く気まぐれに・・

予防は出来ない。9月の末の快晴の土曜日の11時58分に大爆発が起こると誰が予想出来るのだ。絶対に出来ない。そんな見透かされやすいものではない。底が浅くはない。自然に対しては、謙虚であるべきだ。

しかし、予兆はあったのだよね。

微弱振動があった。1ヶ月前に登山した友人は、腰掛けると微弱な揺れを感じた。噴煙も普段と比べると勢いがあった。底知れぬ危険をなんとなく感じた。しかしこんな大惨事が発生する予兆だとは想わなかった。と語っていた。

硫化水素の匂いが強ければ危険グレードを上げる。それが無理ならば、気をつけて下さいと呼びかけるべき事は無理だったのか。そんなシステムを作っておくべきだ。

その無念さが、遺族にはあると思います。

勝てません。克服は出来ないのです。

隙を狙って、微笑みを狙うだけです。登山(自然相手の活動)とは、本来そんなものだと思います。

そして

事故が起こった時の救急・救護体勢をキチンとすべきだ。

火山活動にしろ、風水害にしろ、しっかりとスクラムを組む体制を造ることが大切である。この体勢作りを岐阜県医師会が、中心になって立ち上げようというのが「山岳JMAT」である。私が役に立つかどうか分からないが、精一杯努力してみようと決めた。

 

2016年9月17日

御嶽山山麓調査   濁河温泉一帯

28年9月18日(日)   大雨でした。

御嶽山山岳調査・応急処置訓練

応急救護所・ドクターヘリ離発着場調査

その後、6合目小坂口登山道から8合目「お助け水」までの登山を予定するも雨と風がひどく、7合目「のぞき岩」で引き返す。

詳しい地図は以下のサイトを参照して下さい。  

http://www.yamakei-online.com/yk_map/?latlon=35.90000885609572,137.49375777737941&zoom=14

 

2016年9/22(秋分の日)   秋雨前線の大雨

   山岳医療研修会    1400から講演会

 

 岐阜県山岳連盟会長

   岐阜県の山岳事情

 おひさまクリニック・・・上条剛志先生(日本登山医学会 認定山岳医)

   御嶽噴火災害における山頂医療活動と山岳救急医療

  御岳ロープウエーのある黒沢口コースから翌日登られたそうです。登るのがいやだった。怖かった。噴火があったらどうしよう。噴石が落ちてきたらと・・・ずっと恐怖を感じながら登っていた。登山経験は十分にある方ですが、登山に対する恐怖ではなくて、霹靂的な噴火に対する素直なお気持ちだと受け取った。

<<御嶽山の大噴火 平成24年9月27日(土曜日)>>

09/27日(土曜日)  快晴    

11時52分、   大規模の水蒸気爆発噴火が起こる。

この年の9月は週末はいつも天気が悪かった。漸く晴れた9月末の週末、土曜日のお昼の惨事である。 紅葉シーズンが始まった御嶽山は、200名を超す登山客で賑わっていた。そんなことをテレビのニュースが放送している。詳しいことは分からない。

が、噴煙が沸き上がっている。潮見街道(国道418号)から黙々と高く舞い上がる噴煙を確認する。

09/28日(日曜日)  快晴です。

 参加者は御嶽山の噴火災害のことを心配している。登山歴のある人は自分の時と重ね合わせて無事を祈っている。「ぐるっと浜名ウルトラマラニック100キロ」に参加していました。蛇足ですが、15時間で完走しました。

10/01日(水曜日) 

 1812分、現在 死者47名。  不明者が16名ぐらい

 

私見  2

山登りは危険が伴う、遭難があるかもしれない。しかしそれも気候条件、山によって大きく心の準備が異なる。9月の末の快晴のお昼時に全く青天の霹靂の大噴火が起きた。しかも土曜日で大勢の登山客で賑わっていた。そんな状況の御嶽山で、死が次の瞬間に自分を襲うかもしれないと思う悲観論者は杞憂を信じる中国人ぐらいである。何が起こったのか全く分からず、右往左往する間もなく、天国に召されてしまったような感じでしょうね。遺族にしてみれば、その驚きを、その悲しみを、憤りを誰にどうぶつけたら良いのでしょうか。納得しがたい遭難だと思います。

御嶽山は、昭和54年10月の噴火が有史以来初めてでした。死者はありませんでした。この年、私は弘前大学山岳部のカラコルム・テラムカンリⅢ峰の遠征隊に参加しており、翌年そのことを知りました。2007年にも小噴火がありました。日本列島は生きています。その列島に生きている私達は地震災害・火山災害に遭遇することに半ば諦め、半ば享受しています(ちょっと不遜な表現ですね)。雲仙普賢岳の火砕流による被害を遙かに超える大災害になりました。戦後最悪の火山噴火災害となる。

10月5日(日曜日)

死者は51名になる。

10月12日

死者56名・・不明者6名 

10月14日

雪が降り始める。捜索は難航を極める。山頂付近は近づくことが出来ない。

<<色々な話が入ってくる>>

噴火の約4週間前から火山性地震が増加していた。そのことを心配する声もあった。

登山ガイドからは「硫化水素が普段より強かった」、山小屋従業員からは「噴気の勢いが強かった」などの証言が報道されている

2017年9月26日  噴火災害から満3年

   死者  56人  行方不明   5名 

      

 

               乗鞍登山と研修会(平成29年9月)

 

2017/09/24 日曜日    快晴   火山噴火火災災害医療研修会と乗鞍登山

 

山岳JMATの活動(岐阜県医師会主催)

山岳医療に関する医師養成協議会

火山噴火火災災害医療研修会

 

朝、8時ちょっと前に平湯温泉、岡田旅館を出発。

高度が上がるとバスの車窓から槍が岳の穂先(3.180メートル)がクッキリと綺麗にみえます。槍・穂高連峰が一望出来ました。槍の西鎌尾根から傘が岳への稜線が正面に見える。そして槍の穂先から南岳・北穂高岳・奥穂高岳(3192メートル)の稜線が圧倒的は迫力で眼前に拡がる。奥穂から前穂の稜線も偉容ですね。

飛騨川からこんなにハッキリとした穂高連峰をみたのは始めてかもしれない。

3000メートル峰の頂に登るのは8年ぐらい前の富士山が最後だ。富士吉田の浅間神社(標高850メートル)から登った。標高差があったできつい登山だった。あの時はN氏、ケンと一緒だった記憶だ。畳平らに到着したのは9時過ぎですね。

ミーティングは昨日の晩に済ませた。

今日は、平湯から乗鞍スカイラインで標高2700メートルの畳平まで揚がり、そこで

「火山噴火火災災害医療研修会」の実地研修がある。

 

 

高山市の久美愛病院の医師2人(脳外科医 国本 外科 加糖))・看護師2人(救急救命部)が講習会の指導者です。山岳救助の[イロハ]を学ぶ。トリアージして、色分けしてその決定を書いて被災者の右手首につけるカード(ボード)もありました。

その後、日医総研の上家先生の・・火山ガス対策の講演と実技がありました。

講習会はそれなりに楽しいですよ。学ぶことが沢山有りました。災害治療の研修としても、又そうではなくて、一般災害時、或いは外来患者の対応として応用が出来ますね。

一例として

骨盤骨折への対処方法 

骨盤をシーツで固定する・・回してひねってその先端をコッヘルで固定する。

いつか遭遇するかもしれない災害に、外傷に十分対処出来るように十分に訓練をしておくことが大切。

山下智久・新垣結衣が出演する[コード・ブルー]みたいに格好良くはなかったが、キビキビとした自信に満ちた態度講習が気持ちよかった。

白雲荘でお昼ご飯。上家先生の提案で全員酸素分圧を計りました。乗鞍の頂上でも測定しました。白雲荘では97%、山頂では89%でした。

 白雲荘の小林さん(乗鞍岳の山岳ガイド)の先導で乗鞍岳に登る。山頂は3026メートル、畳平らは2702メートル。標高差は300ですからそれほどありません。

乗鞍も御嶽山、焼岳同様に活火山だそうです。しかし、古文書には確かな噴火の記載はありません。噴火はどこにあるのですかとたずねました。平湯大滝のあたりに噴煙が上がっているそうです。

剣が峰は日本で一番高い日本海と太平洋に分ける分水嶺。権現池は日本で2番目に標高の高い池だ。一番は御嶽の「一の池」。畳平らは日本で一番標高の高い駐車場。 立山の室堂も富士吉田口も標高2400ぐらいです。乗鞍山ではなくて、乗鞍山塊という表現が正しい。22の頂から成り立っている。槍が岳から穂高を合わせた大きさよりも大きい山塊だそうです。動植物も豊富だそうです。雷鳥も150羽を数えている。

乗鞍にまつわる色々のことを教えて貰いました。山の話は楽しいですね。万年雪があるそうですが、立山と違って氷河は形成していない。カールの地形もありません。

快晴の暖かい日曜日の大満足の登山でした。

                                                                                 乗鞍山頂 (小林県医師会長と野々村先生)

註 5

2012年、日本にも氷河があることが認められました。立山と剱岳にある、御前沢雪渓、三ノ窓雪渓、小窓雪渓です。大学時代の夏山合宿の設営地であり、訓練谷です。昭和の時代は、北海道大学の氷雪研究所が氷河であるかどうかの研究をしていました。が、確証を得ることが出来ないままだった。立山の山崎カールは国の特別天然記念物に指定されています。

 

 

                           2017/10/06

私見 その3

御嶽山噴火災害事故を想う

遭難事故は必ず起きる。起きた時にどう対処するのか。

それを想定して研修しましょう

 

昭和44年、私が弘前大学体育会山岳部に入部した頃は、山登りをするのは「限られた一握りの頑強な山男 或いは山を愛する登山家、無鉄砲で向こう見ずの愚か者」だけだったといっても過言ではないだろう。冨士山、北アルプスなどに登るということは「憧れ」ではあったが、「一般的」ではなかった。山を登るということは少し特殊なことで極めて危険であった。登る本人にも、送り出す家族にも「万が一という覚悟」があったのではないか。それだけでも十分に魅力的だった。危険であるが故に、山に冒険的な神秘的な魅力を感じていたし、憧憬を抱いていた。それと共に、ナルシスト的に山登りをする自分に、己に甘い感傷を抱いていたかもしれない。少なくとも私の母は、「下山したという電話を貰うまで心配だった。しかし、タカさんは山に行くのだから仕方ないね」と言っていた。

ところが今では山登りが様変わりした。誰もが比較的容易に、心の準備なく登れるようになった。道路網の充実で山の麓までが、中腹までが近くなった。装備の発達で防寒具も、携帯食料も、通信も格段に優れものになった。とても素晴らしいことだと思います。3~5時間の登山で3.000メートルの頂上に立てる。その雄大な自然を満喫出来る。文明の恩恵です。十分に満喫すべきです。

註 6

8000メートル峰に最初に登頂したのは「フランス隊」です。1950年、6月3日、モーリス・エルゾークと、ルイ・ラシュナルの2人が、人類初の8.000メートル峰に登頂した。このフランス隊は「ナイロン隊」とも呼称され、その当時の最新の技術を駆使して、登山道具の軽量化をした。その事は、ヒマラヤ登山の安全性も飛躍的に高めた。

「処女峰 アンナプルナ」 モーリス・エルゾーク著 近藤等(早稲田大学教授)訳 を是非読んで下さい。この本は、山岳書というよりも、人間の可能性への挑戦、近代文明への信頼で貫かれ、それでありながら隊長エルゾークの人間としての葛藤やら、下山途中で凍傷により手足を切断させる場面の記述など、生々しい人間達の記録である。

 

註 7

登山者数の増加の実態は掴みにくいのが事実である。山岳遭難の発症件数はある程度倦博が出来ている。50年前の昭和43年当時の約5倍の遭難事故が報告されている。「誰が・・どこを・・誰と・・」

のあらゆる場合を想定して対策を立てなければいけないのだろうか。

 

 

 ある意味重大な決意をしなくても御嶽山にも、乗鞍にも登れるようになりました。準備は、心の、体の準備は優しくなりました。

私的には、高校2年生(昭和40年)の研修旅行で西穂高岳の独標(2701メートル)登山に参加しました。西穂高ロープ・ウェーの完成は昭和45年ですからキャンプ地から歩きました。登れた者は希望者のうち、僅かでした。今ならば、高校生は、ほぼ全員山頂駅から独標に登れるでしょう。とても素晴らしいことです。しかし、 自然は優しくなった訳ではない。山岳地帯に入山する事は危険は常につきものです。山に登ることは、自然の脅威・突然の豹変・に心しなければならない。常に備えておかねばなりません。それだけは忘れてはならない。

 それでも、3年前の御嶽山の噴火災害による事故死は納得出来ないものがあります。 何か予防策はなかったのだろうか? 昭和54年の噴火が有史以来の噴火であった、その後も群発地震があり、小噴火が続いていた。それにも拘わらず、行政側に、国立公園所有管理者の国は、その後の予測・予想が不十分だった。そんな非難があるのは仕方ないような気がする。 それほどにショッキングな事故でしたね。

註 6

私はその時、独標に登ることが出来ました。今、記憶の断片を取り出しても経験のない苦しさだった。何度も止めようと思ったが諦めないで登った。登り切ったという達成感が疲れを吹き飛ばしてくれた。圧倒的な迫力で眼前に拡がる穂高連峰・槍が岳・北アルプスの景色に心を奪われた。それが大学山岳部への入部への最大の動機です。

                                                                       2017/10/10

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