佐藤クリニックロゴマーク

タカさんが語るFIFAワールド・カップ 1994年 アメリカ大会

タカさんの語るFIFAワールド・カップ
 第22回FIFAワールドカップカタール2022
11月21日から中東のカタールで開催される
何も知りません。思いついたままを書きます。偏見と独断の塊です。

1994年アメリカ大会
この大会のことは何も知りません。WEBを紐解いても何も糸口はありません。ただ、ドーハの悲劇と言うことが語り継がれている。再確認しておきます。
ドーハの悲劇とは
ドーハの悲劇は,1993年10月28日 にカタールの首都・ドーハのアルアリ・スタジアムで行われたサッカーの国際試合、日本対イラク戦の日本における余りにも悲劇的な結末を比喩した表現です。

1994年アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選。日本は勝ち点・勝率においてグループ1位となり、初のワールドカップ本戦出場に王手をかけており、ほぼ確定的と思われていた。そして、勇んで最終戦イラク戦に望んだ。試合終了直前まで2-1でリードしていながらロスタイム(アディッショナルタイム)にイラクに同点ゴールを入れられてしまった。韓国と勝ち点で並んだ。しかし、得失点差で韓国の後塵を拝し「グループ3位」となって予選敗退してしまった。初出場権がするりと落ちてしまった。日本サッカー史において伝説的な悲劇の出来事として記憶されてしまった。今だと詳細な星取り表が提示されて色々な可能性について充分に議論され,周知されるので過度な期待もしないだろう。 兎に角、初めてのワールド・カップ出場の絶交の機会がやってきた。しかも最後の1試合を残して首位である。期待はいやがうえにも大きくなっていた。それが、最後の一分でひっくり返された。落胆した。大ショックだった。しかも最後に抜かれたのが隣国韓国である。私の薄れていくばかりの記憶ではこの試合を衛星放送で観ていていた。詳しいことは全て夢の中です。微かな記憶がある程度のことに過ぎない。
プロ野球のペナントレースの優勝レースでは、、「マジック」がある。大洋ホエールズの監督だった三原さんが考え出した計算式である。今でも「マジック」と重宝されている。
 さて、1993年には、Jリーグが始まりました。プロスポーツと言えばプロレスリングと相撲を除けば野球だけだった。住友金属蹴球部が鹿島アントラーズに、ヤンマー蹴球部がセレッソ大阪に、ヤマハ発動機蹴球部がジュビロ磐田に変身しました。川淵ゾーンチャエマンが大きくクローズアップされた。私がサッカーに興味を持ち始めたのはこんな理由からです。長男の統がサッカーをやりたいと言い始めた。監督に直訴して1年早く(小学校2年生)から「FC やおつ」に入団させて貰った。嫌がらないで喜んで練習に行き壁打ちを何時間もやり続けるその姿を観て始めて、サッカーって面白いのか?そう思い始めた。開幕したその年名古屋の瑞穂球技場に統とその友達を連れて観戦に行きました。対戦相手もその結果も覚えていません。設備も全く不十分で飲み物も、食べ物もない。便所も少ない。2人の子供を周りからブロックするので精一杯でした。

電話・FAX

TEL.0574-43-1200
FAX.0574-43-9050