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ジェネリックメーカー大不祥事件 その3  己の反省を込めて

私が一番気にしていることは来年春の医療費の改定で薬価を切り下げることを厚生労働省は画策している。ソレは止めて欲しい。

今回のあまりに恥ずかしい日本の医療・薬業の実態が明るみに出た訳であるが、その原因の一端はジェネリック医薬品の薬価への異常な圧迫にある。先発品の30%近い薬価で利益を出すという事は不可能である。

例を挙げれば

 βブロッカーに分類される高血圧治療薬であるアテノロールの先発品の薬価は後発品(ジェネリック)4倍ほどである。1錠 5.90円の薬価で利益を上げるということは困難だと思う。袋詰めの駄菓子ではない。1錠、1錠がヒートシール包まれ、単位錠数毎に箱詰めされているのだ。その包装代だけでもそれなりのお金が掛かっているはずである。

鎮痛剤に分類されるセレコキシブの先発品の薬価は後発品の5倍強程である。

他の世界のことは何も知らないので比較検討することは出来ないが、思わず笑ってしまうほどに価格差のある商品(特許切れした後の先発品と後発品)は他にはあるまい。

愚考するに、今の薬価で厚生省の基準通りに製造をし、製品管理をする事は出来ない。

どこかで手抜きが行われる。今回の一連の事件で、県の、厚労省の監督が厳しくなるだろう。厳しくなるのであれば、採算は取れないので作らない。作れない。という結論ですね。

 日本は資本主義社会です。

厚労省は監督官庁という立場で、俯瞰的に睥睨し製薬業界を見渡して指導をして貰いたい。

手をこまねいているだけでは何年経っても事態は改善しない。

                令和3年12月13日  脱稿

 

私の個人的な反省と思い

製薬業界には、というより各製薬メーカーのMRさん(かってはプロばーさんと呼称していた)達に一方ならぬ世話になってここまで生き延びさせて貰った医療の世界の『裸の王様』医師としては、表だっても、ひそひそとも製薬業界を悪し様に言うことは出来ません。一蓮托生の間柄です。

 医学部を卒業した1974年(昭和49年)の頃は、医師と製薬メーカーの営業マンは非常に密接な関係でした。私自身はあまりその関係は好きではなかったので、個人的に世話になることは避けていた。それでも病棟の看護婦(その頃は看護師さんではなかった)さん達と一緒の医局旅行とか、スキー旅行では資金援助を仰いだ。副作用報告の書類を書き上げその対価として援助して貰った。医局で歓迎会とか、送別会等の行事がある時もお願いした。今思えば「おんぶにだっこ」だったのだが、私はそれなりに毅然とした態度を崩さなかったつもりである。激しい癒着を嫌うが如くの態度は『目くそ、鼻くそを笑う」の類いだと少しは反省している。

 私は平成元年10月に開業した。愛知医科大学に、上飯田第一病院でお世話になったプロパーさん達にも挨拶して回った。その中のS製薬のOさんが、最後に『佐藤先生、本当にお世話になりました。つまらないものですが、良かったら開業されてから使って下さい』と大きな紙の手提げ袋を2つくれた。ティッシュ・ペーパーが顔を出していた。『ゼロからのスタートだから貰えるものは何でも・・・』と有り難く頂き、倉庫にしまっておいた。開業して1年ぐらい経った時、A薬業のI所長が血相を変えて飛んで来た。『先生!あの大量の抗生物質は何時、どこから買われたのですか?』答えて曰く『俺知らないよ』『抗生剤なんて買ってない』 倉庫に行くと大きな紙袋に1年程前に新発売になった抗生物質がぎっしりと詰め込まれていた。私は、狐につままれた気分であり問屋の所長は怒っている。記憶を辿っていくうちに思い当たった。私は思わず『S製薬の0さん、ありがとうございました』『御礼が遅くなりました』と愛知医大の方角に深々と頭を下げた。

こんな事もありました。

30歳の年(1979年)にパキスタン・カラコルムヒマラヤのテラム・カンリⅢ峰の海外登山遠征隊に登攀隊員として参加しました。医薬品は各病院でおこぼれを貰ったり、内緒で処方して貰ったりしました。製薬会社からも沢山の製剤見本を貰いました。1982年にもネパールヒマラヤの処女峰ヒムルン・ヒマール遠征隊にも参加しました。この時は愛知医大に在籍していました。医薬品もたくさん無償提供して貰いましたが、思いついたようにして『三色ボールペン』をたくさん集めました。ネパールの子供達へのプレゼントにしたいと考えたのです。この私の企画に多くのMRさんが賛同してくれたのです。瞬く間に何百本という3色ボールペンが集まったのには本当に驚きました。勿論現地では、予想外の大反響でした。子供達はおろか、大人もボールペンを求めて私の周りに人垣が出来ました。

平成7年、1月11日には阪神・淡路大震災が起きました。3月の所属するボーイスカウト可児第一団が派遣した災害救助隊に参加しました。この時は厳冬期の避難所暮らしをしていくうえで最も不足するものを考えて物資を集めました。ティッシュペーパーを集めました。紙パンツ・紙おむつも集めた。3月の芦屋の体育館暮らしは風邪も流行するだろうし、花粉も飛ぶだろう。カイロも集めました。本当の多くの物資が瞬く間に集まったことにビックリしました。

勿論、開業医である私の対する忖度だけではありません。地震と火災で棲むところも着るものもない状態で毎日を過ごしている人達への温かい義援・応援の心が主であることは間違いありません。そろでも、良く集まったものだと感心しました。

                                                 令和3年12月16日  脱稿

 

 

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