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私のお気に入りのアフガニスタン

敗走で終わる「史上最長の戦争」 米国の威信に大きな傷
8月15日
タリバン、アフガニスタン全土を掌握する
チョット衝撃的なニュースが飛び込んでくる。アフガニスタンの反政府組織デイスラム原理主義を掲げる「タリバン」が全土を制圧したというのだ。アメリカの全面的支援を受けて言いルアフガニスタン政府もそれを公式に認める。カブールの無血開城に向けて交渉に入ったというのだ。アメリカ軍が駐留して曲がりなりにもアフガニスタンを牛耳っているのではなかったの?読み漁るとアメリカは『タリバン』と交渉して今月末までに完全撤退する予定だったそうです。それが、2週間ばかり早まった。本当に撤退するの??

私とアフガニスタンとの付き合いを編年体で書き綴ってみる。
1972年 
私が大学生時代、所属していた部活動は体育会山岳部だった。私は1968年弘前大学に入学したが山岳部の門を叩いたのは2年生の春、1969年{昭和44年}です。弘前大学体育会山岳部が、アフガニスタン・ヒンズークシュ山脈 コーイバンダーカー峰に遠征隊を派遣したのは1972年(昭和47年)のことです。私は大学5年生(専門3年生)でした。残留部隊の長(主将)を命じられていた。馴染みのない国だったが、遠征隊の会議に参加している間にアフガニスタンという国を学び、愛着を持ち始めていた。遠征隊は遠征隊員全員の登頂という輝かしい成果をお土産に凱旋した。イスラム国家という国の成り立ちから学んだ。いつかは私もこの国を訪れたいと思っていた。
1973年
アフガン王朝が倒される。黒幕は旧ソ連であり、共産主義政権が樹立。
1975年
西ドイツに亡命中のアフガン王朝の末裔エナイトラが弘前に遊びに来る。彼は72年の遠征隊のアフガニスタン側のオフィサーを務めてた。すっかり日本贔屓になり、花田隊長を慕って日本に遊びに来たのだ。彼はアフガニスタンで王政復古が起きると確信していた。
事実、共産主義政権対する抵抗は根強かった。

1978年 

クーデターが起きる。倒れかかっていた共産主義政権が復活する。しかし、それでも親ソ連的政権に対する反撥は全国的な拡がりを見せ、抵抗は一層激しくなった。新ソ連な共産政権は存続が危なくなってきた。

1979年12月  ソ連のアフガニスタン侵攻

 ソ連軍が侵攻してアフガン全土を制圧する。所謂「ソ連のアフガン侵攻」である。 
 この20年の動乱は何だったのだ。そもそもは1979年のソ連のアフガニスタン侵攻が引き金だね。それまでは平和な国中世の面影を残すイスラム王国だった。インド・パキスタンとイラン・イラクとの交易国家として貧しいながらも平和な国だった。その王朝が倒れたのは1973年です。私の所属していた弘前大学体育会山岳部がアフガニスタンの中部ヒンズークシュにあるコーイ・バンダカー峰に遠征隊を出したのはアフガン王朝の時代1972年です。そして王族の末裔であるエナイトラ(この当時西ドイツに亡命)が弘前に遊びに来たのは、共産主義革命で王朝が倒された後、1975年ぐらいですね。1973年、アフガン王ザーヒル・シャーの従兄弟がクーデターを起こし、王政を廃止した。ソビエト連邦共和国の後押しで共産主義共和政権を樹立した。しかし、宗教家や、部族長から反撥があり、再び王政復古を求める声が高くなった。1978年クーデターが起こり、共産主義政権を樹立したが、再び宗教家、部族が激しく反抗する。1979年12月、共産主義勢力が敗色鮮明な為、ソ連軍が侵攻してアフガン全土を制圧する。所謂「ソ連のアフガン侵攻」である。世界中がソ連の勝手な行動を非難した。そして、翌年のモスクワ五輪を自由主義

国はボイコットして抗議の意志を示した。 私はこのニュースをタイのバンコクで知った。この年、弘前大学体育会山岳部はパキスタンのカラコルム山脈にあるテラム・カンリⅢ峰登山遠征隊を派遣した。勿論、私も登攀隊員として参加した。遠征終了後、アフガニスタン・イラン・イラク経由でヨーロッパまでの旅行を計画していた。が、アフガニスタンの状勢が怪しいと言うことで断念した。ネパール・インド・ビルマ(今のミャンマー)タイで8ヶ月ほど遊んでいた。

ジハード と ムジャヘディン

全世界のイスラム教徒は、ソ連軍との戦いをジハード(聖戦)と称し、戦士をムジャヘディン(聖戦戦士)と讃えた。この時、アメリカはこの戦いをジハードを、イスラム教徒の戦いを支持し支援したのだ。大きな後ろ盾になってソ連の蛮行を諫めた。

1989年 ソ連 アフガニスタンからの撤退

アフガン侵攻から10年、1989年、ソ連は大決断をした。撤退を決めたのだ。これがソ連の崩壊の緒端である。ソ連のアフガニスタンからの撤退でアメリカは興味を失って手を引いた。この時代に、隙間に台頭してきたのが原理主義者タリバーンである。1996年(スンニー派)原理主義集団のターリバーンが権力を握る(2000年には全土の90%)。そして、世界中でイスラーム過激派のテロが活発になる。

2001年9月  (9.11 同時多発テロ)

2001年9月11同時多発テロがおきる。(9.11同時多発テロ)記憶に鮮明に残っている。ニューヨーク世界貿易センタービルに民間飛行機が飛行機まるごと全面衝突する。離陸直後で燃料もたっぷり入ったままの飛行機が意思を持ってぶつかってきたのだ。ビルは燃え盛り、崩れ落ちた。同時刻ワシントンのペンタゴン(国防総省)にも民間機が突っ込んだ。日本時間は夜の9時半過ぎだった。診察室で仕事をしていたら美尋さんが「タカさん!アメリカでとんでもないことが起きている。旅客機がビルに突っ込んだみたい。事故じゃないみたい。アナウンサーがテロだと叫んでいる」と呼びに来た。NYは朝だった。相良直美の歌の歌詞ではないが「アメリカの為世界はあるの」と君臨する立場に驕りきっていたアメリカは大慌てをした。大パニックになった。そして国民の不安の不満のはけ口をアフガニスタンへの戦争遂行に求めた。

2001年 アフガニスタン戦争

「同時多発テロ」のその首謀者ビン=ラディンとアルカイダがアフガニスタンに潜伏しているとしてその引き渡しを要求する。拒否(無視)されるとアメリカは「日本を含む有志連合」を組んで、アフガニスタンに侵攻する。これが、「アフガニスタン戦争」である。 2001年12月タリバーン政権 崩壊 その後、20年の長きにわたって戦闘を続けている。ターリバーン政権を倒し新政権を樹立したが、泥沼のような戦争を20年の長きに亘って行った。

2021年 アメリカ軍全面撤退

そして最後にはアメリカにとっては不名誉な撤退となった。

アフガニスタン戦争の結末  アメリカは負けた。ベトナム戦争に次いで2度目も敗戦を経験する。途中の経過は省く。
2018年7月 トランプ大統領 タリバーンとの交渉開始。

2020年2月米軍の段階的撤退を決める。開戦から20年の歳月が経っていた。アメリカ国内に漂う厭戦気分・・・沢山のアメリカ国民が死んだ。膨大な戦費を費やしたが、終わりが全く見えない。と言うよりもアメリカの戦い方では勝ち目がない。そう判断した。

2021年4月 バイデン大統領同時多発テロから20年になる今年9月までに完全撤退を表明。

8月末までの撤退を決めた。
8月16日   ガリ大統領は国外逃亡(金銀財宝をかかえてタジキスタンに逃げたということらしい)
アメリカの責任は重大だが、誰も避難出来ない。
ベトナム・イラク・そしてアフガニスタン
最長の戦争が終わる時だ。
名誉ある、勇気ある撤退にするはずだったが、「敗北」の撤退に終わる。
傀儡政権を維持することが出来なかった。アメリカに対して全く信頼がない状態が20年続いた。「
何の為に戦ったのか」「恥ずべき撤退だ。歴代大統領は懺悔すべきだ」「「脅威を無視した」
推計でアフガニスタンの死者は17万人に及ぶ。市民の犠牲 4万人。
「タリバーンのむごい仕打ちをするのではないかと懸念されている。するだろう。当然。公開処刑は免れないだろう。戦争とはそういうものだ。

アメリカの威信は大きく傷ついたとか、名誉ある撤退とかバイデンさんは嘯いているが、アメリカ正義の視点のままで有る。世界中がアメリカの威信の失墜とか不名誉を掲載しているが、アフガンの視点からは見ていない。
刃向かった訳でも何でも無いアフガニスタンのタリバーン政権である。アフガン人のずたずたにされた心は誰が癒やすのだ。
8月18日
タリバーン政権の報道官は盛んに強調している。
「外国勢力を国内から追い出した」」


8月27日       金曜日    朝から碧空   午後   37.5℃

ISが、アフガニスタン、カブールで自爆テロ  米兵13名死亡
アフガンの泥沼はこれからだぞ。   合計170名死亡

 

ソ連のアフガニスタン侵攻
1979年12月当時私はタイのバンコクに滞在していた。決して留学ではありません。
ヒッピーの流れをくむ若者の群れの1人だった。チャイナタウンの楽宮旅社と言う安宿にたむろしていた。2.3日に1度バンコック市内の日本人の経営する喫茶店・軽食堂に顔を出した。日本から送られてくる新聞を読んで日本の出来事、世界の出来事、世界情勢の情報を得るのが恒だった。朝日新聞の1面に『ソ連アフガニスタンに武力侵攻』の大見出しが載っていた。そしてタンクがカブールの街中に躍り出て我が物顔だった。こんな事があるのかとビックリした。しかし、ソ連にしてみれば、ハンガリー動乱、チェコのプラハの春を武力で完全制圧したばかりである。世界中『ソ連』に刃向かう国はいない。アメリカだって怖くないと確信し、奢り慢心していた絶頂期のソ連の行動である。躊躇いなんて無かっただろう。

奢りとは元来そんなものである。

余談

1979年のバンコクの生活は堕落していた。廃退的ですらあった。カラコルム遠征隊は処女峰テラムカンリⅢ峰初登頂という栄光を手にしたが、それは1隊員の遭難死という犠牲を払うことを余儀なくされていた。勇気の無いままに生き残ってしまった隊員であるという心の重荷を引きずっていた。心の憂さのはけ口はアルコールと女だった。チャイナタウンのはずれにはインドシナ三国からの出稼ぎ女性のたむろする仕事場があった。

ラオス(ビエンチャン)からの女性達は、幼かった。それでも、それ故に必死だった。私は、彼女等がお気に入りでバスで足繁く通った。言葉は全く通じずとも心は通じた。よく尽くしてくれた。館に入ると、ガラス窓越しに座っている女性を指名するのだが、違う娘を指名すると顔が曇った。次の日改めて指名すると愛想を崩してとっても喜んで尽くしてくれた。

こんな勝手な言い回しが許されるのであれば良いのだが『私のどうにもならない心の憂さのはけ口の性行為であるが、それが、ラオスからの出稼ぎの娘さんの生活の助けになっている』という思いだけが救いだった。朝ご飯を食べて漢方薬の滋養強壮薬を1杯飲んで出掛ける。お昼に帰ってきてお昼寝をする。散歩をして、2回目のバスに乗ってビールを飲んで上機嫌で遊ぶのだった。

 

 

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