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ノーベル賞物語り  その  3  鈴木梅太郎

 

受賞できなかった『医学・生理学賞』 その2  鈴木梅太郎

                             鈴木梅太郎(無断借用)

ビタミン発見物語り
             
江戸中期以降の我が国の大都会では「脚気」が蔓延し死亡者も多かった。「江戸患い」として恐れられた。

手塚治虫の漫画『陽だまりの樹』の中でポンペ先生と松本良順が自国特有の病気を紹介し合う。ポンペ先生は、働き盛りの男が突然の関節の痛みに苦しみ、関節が腫れ上がり、動くことが出来なくなる痛風を紹介し、松本良順は『脚気』を紹介する。田舎から年季奉公にやってきた若者が徐々に体が弱り、浮腫み始め、衰弱する。死亡することもあるので田舎に返すと元気になる。体調のすぐれない者もお盆や年末に田舎に帰ると元気になる。こんな不思議な病気を知っているかと尋ねる場面がある。
明治後も軍隊で罹患者が続出
 海軍・・・・疫学的研究から食事の改善(麦飯の導入)により予防も治療も出来た。
  陸軍・・・・「脚気伝染病説」を奉じて白米食に固執し、多数の病死者が出た。あの「森鷗外」が固執し、鈴木梅

       太郎や北里柴三郎を罵倒し続けた。尋常の神経ではない攻撃だった。
1897年 オランダ人 エイクマンが米糠中に未知の栄養素が存在する事を発見。
1910年12月13日(ビタミンの日) 鈴木梅太郎
米ぬかの中の脚気予防因子を分離したと発表。勿論世界最初の発表である。米糠から抽出されたこの成分はイネの学名 oryza から「オリザニン』と名付けられました。
 発見当時はビタミンという概念はなかった。後にビタミンB1=チアミンである事が分かった。

                         化学式: C12H17N4OS+
 江戸時代は一大病気だった。
脚気心 心不全で死亡する事も珍しいことではなかった。

脚気で歩けなくなったいざり(無断借用)
江戸時代の徳川歴代将軍の内、十代 家治、十三代 家定、十四代 家茂は、脚気で死亡している。
 元禄年間に米を精製する技術が発達して、「江戸っ子」は銀シャリを食べる事が誇りとなり、「粋」であった。 成人男子は、1日白米3合、が基準とされていた。味噌汁と漬け物以外の副食は殆ど無かった。年季奉公に来た若者は次々に倒れた。年末とお盆に帰省すると元気になった。
 明治時代になっても、脚気患者が大量に発生し続けた。死者は、年間30.000人以上と言われている。惨禍が起きたのは徴兵令施行後の帝国陸軍であった。入隊した水飲み百姓の若者は白米に驚喜したが、次には脚気を患って倒れた。大問題であった。
海軍軍医 高木兼寛(後の海軍軍医総監)は、 軍艦別に白米食と洋食を食べさせて比較検討した。洋食組では発生も死者もなかった。食べ物によるものだと判断し、パン或いは麦ご飯にすることによって脚気の発生を防いだ。一方、陸軍は脚気伝染病説に固執した。特に森鷗外が固執した。海軍の研究を徹底的に否定して、白米に固執した。そして、大変な悲劇が発生した。日清戦争(戦死者  1417名、 病死者 11897名(脚気 3944人)で病死者の最も多かったのは脚気である。日露戦争ではもっと悲劇が起こった。海軍の研究から麦ご飯採用を求めたにも拘わらず、森林太郎陸軍軍医総監は(森鷗外)が、頑として聞き入れなかった。戦死者 47000人 病死者 ??(脚気 27800人)発症した脚気患者は250000人だった。陸軍が麦3割を採用したのは海軍から遅れること30年後1913年である。

森鷗外(無断借用)

小説家 森鷗外(陸軍軍医総監  森林太郎)の大失態
1912年、 東大農学部卒業の鈴木梅太郎が、 米ぬかからオリザニンを抽出・・その欠乏が脚気の原因である事を突き止めても頑として認めなかった。それどころか,筆舌を尽くして鈴木を罵倒する論文を発表している。「百姓の眉唾研究」「糠が利くなら小便でも効くだろう」陸軍軍医総監であり、高名な小説家であり、一代の碩学と讃えられた学者である彼が徹底的に弾圧する鈴木梅太郎を、その学説を養護する医学者は,ただ1人を除けはいなかった。脚気菌の存在をきっぱりと否定したのは,その当時、既に世界的な医学者であった北里柴三郎だけだった。そして、森鷗外の彼に対する誹謗中傷も凄かった。鈴木と北里は冷遇され続けた。

インドネシアの脚気
オランダ人医師エイクマンが飼育している鶏が脚気様症状を示した。が、感染を見つけることは出来なかった。餌を玄米から白米に変えていた。白米だけだと病気になるが、糠を与えると戻る。
1897年、米の精米によって喪われる微量成分の不足による栄養障害だという結論
 1928年ノーベル 医学・生理学賞を貰った
鈴木梅太郎(1874-1943)は何故ノーベル賞を受賞出来なかったのか
 二つの不都合なことがあった。鈴木梅太郎氏は外国語が得意でなかった。論文をドイツ語に翻訳される際、「これは新しい栄養素である」という一行が訳されなかった。このためオリザニンは世界的な注目を受けることがなく、第一発見者としては世界中に知られなかった。 もう一つが、鈴木が農学者ということである。当時、東京大学医学部を中心とする医学者の間で脚気は感染症であるという説が信じられていた。中には「農学者が何を言うか、糠が効くのなら小便でも効くだろう」と非難した。徹底的に彼を非難し、弾圧し続けたのが、青山胤通や、森鷗外だ。鷗外は脚気は細菌による感染症であると死ぬまで主張していた。 彼が陸軍軍医総監であった事は日本陸軍が開明性を欠き、世界に冠たる陸軍に成長できなかった大きな障害ですらある。

細菌感染説から欠乏症へ
 翻って、一歩下がって考えてみると欠乏病という概念を受け入れることは難しかった。
鈴木梅太郎によるオリザニンの欠乏による脚気を始め、ペラグラ、壊血病、クル病などが代表的な欠乏病であるが、当時その概念を受け入れることは難しかった。19世紀から20世紀の初頭にかけて細菌病原説が大流行していた。席巻していた。東大医学部閥や森鷗外などが細菌病言説を固執し続けたのもやむを得ないところがある。権威におもねるとはそうなのである。しかし、幾つもの事実を突きつけられたらこれまた素直に非を改めるのが科学者であろう。化学には白・黒の判定がつく。政治とは、政とは全く逆の世界である。
化学の目を持って軍の、医学会のまつりごとを判断して欲しかった。


ビタミンの命名
生命に必要なアミン  VITA AMINE =  vitamin
命名したのはポーランドの生化学者  フンクです。

                              月間保団連(2019年  2月号)を参考にしました。

                                        令和2年10月8日
                                        医学生理学賞が発表され、物理学賞が発表され、化学賞が発表された。も            

                    う日本人のカードは少ない。3年連続受賞は叶いませんでした。

                         

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