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ノーベル賞物語り その2 北里柴三郎

受賞できなかった『生理学賞・医学賞』 その1  北里柴三郎

 

ノーベル賞とは

 

ノーベル賞はスウェーデンの発明家アルフレッド・ノーベルの遺言に基づき1901年から毎年秋に授与されている名誉ある賞である。自然科学3部門(物理学・化学・生理学・医学)では、この賞は世界最高の栄誉であると考えられている。選考は物理楽学、化学賞、平和賞はスウェーデン王立科学アカデミーで、生理・医学賞はカロリンクス研究所で、平和賞はノルウェーのノーベル委員会が行っている。毎年10月に発表される。授与式は12月のストックホルムで行われている。尚、ノーベル財団は、新設の経済学賞を正式なノーベル賞とは認めていない。「ノーベル経済学賞」とは呼ばないと言う事らしい。

 ノーベル賞なんかでその学者の業績を判断して欲しくない。されたくない。だって、破傷風菌の純粋培養、校血清療法を開発した北里柴三郎、脚気の原因がビタミンBI欠乏である事を突き止めた鈴木梅太郎、世界で始めて人工発癌に成功した山極勝三郎東京大学病理学教授等、受賞して当然の学者・先生方が受賞していない。ノーベル賞を「世界で最も権威有る名誉ある賞」であると信奉してる人々の考え方が、捉え方が間違っているわけではないし、人間の智性を疑う訳ではないが、結構選に洩れている人も多い。受賞の機会を逸しそのまま亡くなられた方も多い。そんな人達をチョット捜してみました。

全分野に渡る事は到底不可能であるし、私の専らとするところでもない。医学・生理学部門で、尚且つ日本人と範囲を限定して書き綴ってみたいと思っている。

 

令和2年の3月は、新型コロナウイルス(COVID -19或いは CHINA VIRUS 或いは武漢肺炎)への杞憂が世界中に満ち溢れ日本も真に内憂外患状態です。国内のイベントも催物行事も中止・延期・縮小を長期間強いられています。国民も感染を必要以上に恐れて外に出ようとせず、その傾向は一向に静まる気配がありません。その結果、外来患者さんは激減し、「門前雀羅を張る」状態ですので、有り余る余暇を利用して調べてみました。

 

徒然なるままに

なぜ東京大学医学部卒業生からノーベル生理学・医学賞が出ないのでしょうか?

4年前(平成28年)、京都大学医学部卒業で、京都大学医学部の本庶佑特別教授が「ノーベル生理学・医学賞」を受賞されました。日本のノーベル医学。・生理学賞の受賞者はこれで5名になりました。

その出身大学は京都大学が医学部と理学部で1名ずつ、山梨大学学芸学部1名、東京大学教養学部1名、神戸大学医学部1名となっています。医学部卒業2名も少ない気がしますが、日本の最難関学部といわれる東京大学医学部出身者に受賞者がいません。卒業後、臨床医になる人よりも基礎研究に進む方が多い『日本の知恵袋』集団だと思います。チョット不思議ですね。

 

第1回は北里柴三郎、新しくなる1000円紙幣の肖像画の人物です。

伝記でその生涯を読み聴きした人物の代表です。文明開化を始めた明治の初期、ドイツに留学して世界的な業績をあまた成し遂げた日本が世界に誇る医学者です。ノーベル賞は受賞できなかったが、帰国後も素晴らしい学問的業績を成し遂げ、慶応大学に医学部を創り、北里研究所を創設した「日本の細菌学の父」と呼ばれている。

 

 

北里柴三郎   日本細菌学の父

 

1853年(嘉永5年)肥後藩 生まれ。東京医学校(現 東京大学医学部)卒業

独逸留学中は、ゴッホに師事し多くの世界的業績を上げた。独逸留学中の主な業績を如何に列挙する。

   北里柴三郎の恩師 ゴッホ博士

1889年、破傷風菌の純粋培養に成功

1890年、破傷風の抗毒素の発見と血清療法の確立

1890年 ジフテリアの血清療法の確立

1890年、「動物におけるジフテリア免疫と破傷風の免疫の成立について」を僚友べーニングとの共著で発表する。勿論筆頭筆者は北里です。しかし1901年の第1回ノーベル医学・生理学賞はベーリングが受賞しました。未だに巷を騒がせている不透明で、理不尽な選考であったが、所詮西洋人(賞創設のノーベルは、スウェーデン人の発明家)が創設した西洋社会のための賞である。東洋の片田舎日本から来た研究者が、その対象とならなかった事は「如何にもさようでござります」と引き下がるのみである。

その後も彼の学者としての大活躍、大躍進は続きます。

留学中、脚気細菌説を否定。東京大学や森林太郎(陸軍軍医総監であり小説家 森鷗外でもある)と鋭く対立する。それ故に帰国後は処遇に恵まれなかった。しかし、畏友福澤諭吉の援助を受けて「私立伝染病研究所」(後の東京大学医科学研究所)を設立した。その後私財を投じて北里研究所を設立して、研究を続けた。福澤諭吉の死後、その恩に報いるために慶応大学に医学部を創立、病院長を長く務めた。 

又、伝染病研究所時代の1894年にはペストの流行する香港に派遣され、2日後にペスト菌を発見するという大業績も成し遂げた。同時期にフランス人の医師アレキサンドロ・イエルサンもペスト菌を発見しており、彼の名前はペスト菌の学名に刻まれている。

 日本医師会の設立に尽力し、その会長職も長く勤めた。ややもすれば、群雄割拠的であり、お山の大将ばかりで統率の取れていなかった医師をまとめることに腐心された。

 

破傷風菌の純粋培養と血清療法

北里は破傷風菌の増え方から「酸素を嫌う」という仮説を立て、「嫌気培養」という方法を考案して純粋培養を成功させます。さらに、破傷風の治療として「血清療法」という革新的な方法を開発します。それまで、感染症に対してはパスツールによって確立された予防接種、すなわち「予防」方法しかなく、「治療」することはできなかったので、病気を「治療」できる血清療法は、医療の革命でした。およそ50年後に抗生物質が使用されるようになるまで、多くの感染症に血清療法が行われ、死亡率を激減させました。ちなみに、破傷風には現在でも北里の開発した血清療法を使っています。

脚気菌

 北里は留学前、東京大学医学部の先輩、緒方正規から細菌の扱い方を習いました。この緒方は「脚気菌」を発見したと発表しました(当時日本では年間3万人が脚気で死亡するという深刻な状況でした)。しかし、留学中の北里は、緒方の発見した「脚気菌」について実験を行い「脚気とは無関係である」という論文を発表します。大物議を醸し出しました。

 

感染症研究所

 

福澤諭吉は、世界的な学者でありながら窮地に陥っていた北里柴三郎に自分の所有地を提供し私財を投じて研究所を建設してしまいます。その他多くの人々の協力を得て日本車初の伝染病研究所は民間の力によってスタートし、やがて、コッホ研究所、パスツール研究所と並んで、世界3大研究所の一つと称されるようになるのです。野口英世や志賀潔などの弟子たちは、「ドンネル先生(ドイツ語で雷親父)」と呼び、畏敬の念を持ちながらも、反面大変な人情家である柴三郎の人柄に親しみを持ったと伝えられています。

27歳で赤痢菌を発見した志賀潔、梅毒の特効薬を発見した秦佐八郎、さらに野口英世ら優秀な人材を次々と輩出します。1894年には北里がペスト菌を発見しました。ペストは黒死病ともいい、中世ヨーロッパでは大総人口の約半数を死滅させたとされる恐ろしい病気です。この様な歴史があったので、欧米各国はペストを大変恐れていました。ですから、北里のペスト菌発見という業績を、世界各国は絶賛します。

 

ノーベル賞裏話

北里が日本で散々叩かれている最中の1901年、科学界にビッグ・イベントが誕生します。ノーベル賞です。欧米では国を挙げての獲得運動に走り、コッホの弟子であるベーリングが第一回のノーベル医学生理学賞を獲得します。受賞理由は、「ジフテリア血清療法の開発」。血清療法は医学に革命をもたらした治療法であり、ノーベル賞受賞は当然ですが、ベーリングの研究は北里の破傷風研究の二番煎じに過ぎません。しかし、ベーリングにはドイツの国を挙げての応援があったのに対し、北里は国を挙げて足を引っ張られていました。日本は、ノーベル賞の最初のページに日本人の名前を残すという栄誉を自らの手で葬り去ってしまった。きっと東洋の片田舎、日本からの研究者は対象外であるという前掲の意見と東大閥の北里柴三郎に対する嫉妬・非難中傷・日本人が足を引っ張ったと言う意見の両方だろうね。

確かな事は血清療法の北里柴三郎と「オリザニン」発見の鈴木梅太郎を『胸のすく思い』でノーベル賞の受賞予定者から引きずり下ろした東大閥であるが、その呪いが解けるまで東京大学医学部からノーベル賞受賞者は輩出されないだろう。

 

テルモ」の創始者の1人

第一次世界大戦まで体温計は独逸からの輸入に頼っていました。そんななか国産で良質な体温計を創りたいという気運が起こり、設立されたのがテルモです。テルモの前身、赤線検温器株式会社の設立に大きな力となり、テルモ創設発起人の一人となったのが、「近代医学の父」とも言われる北里柴三郎博士でした。

良質な体温計メーカーを設立したい

医療機器メーカーテルモにはその北里の設立の意気込みが今も残っています。

 

                                       令和2年3月19日  脱稿

 

蛇足

じつは柴三郎も健康で精力的だった。親分肌でバンバンと花柳界で金を使い、富豪と芸者の水揚げ競争をしたりし、新橋の芸者(小川かつ 22歳)を大金で身請けして家を借りて棲まわせていた。子供も産ませている。大盤振る舞いの人であった。断っておきますが、明治の初期の民法では本妻と妾は同等に扱われていた。『妾』を持つ事は一般的な事であり、広く認められていた。

 私の祖父、佐藤兼三郎も、『妾 山中 きぬ』を囲い子供を産ませていた。そして、 ㊤の財産の1/3をその子に相続させている。大舩神社に奉納されている大鳥居には寄贈者として佐藤兼三郎と山中きぬの連名が記されている。実におおらかな時代であった。

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