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東日本大震災から満9年 映画 FUKUSIMA 50(その 6)
(その 5からのつづきです)
FUKUSHIMA 500
1.11東日本大震災(震災の名称)の9年目の当日、私は1本の映画を観た。封切られるのを楽しみにしていた。そして3月11日が水曜日である事も幸いしてその当日にその映画を観る事が叶った。その映画が「FUKUSHIMA 50」です。門田隆将著のノンフィクション『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』が、原作です。東北地方太平洋沖地震(地震の名称)に伴う予想を遙かに超えた大津波が発生する。福島第一原子力発電所では次々に思わぬ事態が発生する。そんな原子炉事故発生時に発電所に留まって使命感をもって、与えられた業務を黙々とこなした約50名の作業員たち・通称「フクシマ50」の闘いを描いています。関のマーゴで美尋さんと一緒に観ました。
「ふく1」と呼ばれていた福島第一原子力発電所で起こった発電所の事故を必死の思いで処理した職員の心の葛藤と苦闘の日々を描いた映画です。事故直後からおそらく1年間ぐらいの物語りである。家族が避難している避難所で吉田所長や、当直長の伊崎達が家族との再会です。そして、2020年3月29日、福島県から出発する「TOKYO 2020」聖火リレーのことで終わります。
2011.03.11.14.46からはじまります。ものすごい揺れが福島第一原子力発電所のコントロール・タワーを襲います。免震棟に待機していた吉田所長(渡辺謙)から直通電話が入る。第一発電所のコントロール・タワーのトップは伊崎(佐藤浩市)である。が、モニターも正常である。すぐに電気もつきました。そんな時のために設置しているディーゼルの非常用電源が動き始める。燃料制御棒は挿入する事はできた。一息ついていると、余震が襲ってくる。大きな揺れに襲われるが持ちこたえている。そして突然の停電が発生する。恐れていたが大丈夫だと確信していた津波が発電所を襲う。充分に耐えうるはずの設計だったはずだが、予想を遙かに超えた巨大な「TSUNAMI」の破壊力はものすごかった。。非常用電源であるディーゼルエンジンも海水の浸水により運転を停止してしまった。非常用電源が動かなくなってしまって「全電源喪失(SBO)」状態である。
吉田も伊崎もこれは一大事である!何とかしないと炉心溶融が起こってしまう。メルトダウンを起こしてはならないと、思いは同じだった。 車のバッテリーをつないでどうにかコントロール室は電気がくる。真っ先に確認した各圧力容器の圧計器を見る。そして1号機の圧力容器の圧が上がり始めている。設計の許容量の倍である。原発の炉心の核燃料を冷却出来なくなっている。勿論放射線量も増大している。このままでは、熱で冷却水が蒸発して圧力が上昇し、化学反応で水素が大量に発生して爆発を引き起こします。圧を下げるにはベントを開けるより手段が残っていない。ベントとは、この格納容器内の蒸気を外に逃がして圧力を下げるための排気操作のことです。しかし、大気中に放射能をまき散らす事になる。圧力容器破壊で放射性物質が全部出て「東京を含む東日本の壊滅」となるよりはましだ。吉田は、幼なじみでもある伊崎にベントを行う決死隊を要請する。
要請を受けた伊崎は「俺が行く」「俺が行くから、一緒に行ってくれる仲間を募集する」という。但し若い奴らはダメだ。多くの作業員が決死隊に立候補する。日本を守るのだ。
12日、朝、菅総理は現地に飛ぶ。現地視察である。東電には任せておけない。全く何を聞いても分かりませんばっかりである。自分で確かめようと・・・・。吉田所長は東電の担当者に邪魔をするなと机を叩いて反抗するが・・。そして決死隊が手動でベントに成功する。最悪の事態は避けられた。空気ボンベを背負ってエアマスクをつけ、炎の中に飛び込む耐火服まで身に着けての決死の「ベント作業」は、すさまじい迫力のだった。彼等の崇高な行為が無かったら本当に日本は人の住めない国になってしまったのだ。真に間一髪だったのだ。
吉田は炉心を冷却するのに消防車を使って海水をくみ上げ海水による冷却を独断で開始していた。それを知った、東電の幹部は中止を命令してきた。しかし、築き上げてきた経験と信念から継続させる。これも又大爆発を、メルトダウンを防いだ。
官邸、東電上層部の命に反して、断固として海水注入を続行した。海水注入のためのライン構築を実行させ、本店から直後に海水注入の中止命令が来る。だが、この吉田さんの機転によって、原子炉の唯一の冷却手段だった海水注入は続行されたのである。東電の言い分は海水を入れてしまったら修理して再使用するという途がなくなってしまうという理論だ。
14日(月曜日)
第一発電所 3号機が水素爆発を起こす。原子力災害緊急事態である。
次々と降りかかってくる予想もしない事故、アクシデントに吉田も伊崎も疲労困憊する。フィフティにも疲労と不安が拡がり始める。
水素爆発をしたのは水素爆発を起こしたのは3号機、1号機、4号機だった。一番危ないと考えられていた2号機はどうした訳か、爆発が起きなかった。未だに謎のままで有る。その事は映画では触れていない。
映画の主題は事実に即して、「フクシマ50」と称賛された人々の団結と結城を描き出すことに全力投球している。個性溢れる俳優さん達の熱演で画き切れていたと思う。菅首相を演じた佐野、東電サイドの交渉役を演じた篠井、その他火野正平、緒形直人、吉岡秀隆、総務係として伊崎を支えてた安田成美などで有る。
テレビモニターで東電の本社に本気で楯突き、怒鳴り返す吉田の執念とこの国を守るのだという心意気も良かった。
今の安全な日本があるのはあの日、現場から離れず文字通り必死で爆発から日本を守ろうとした吉田所長含む50人の方々のおかげだ。この勇気を絶対に忘れてはいけない。
ほぼ実話ベースで造られた映画なのですが、行き詰まるような緊張感の連続なので伊崎の奥さんと娘さんはこの映画の華でした。
15日に行われた、ヘリコプターからの原子炉建屋に対する水の散布シーンもあった。
事の重大さを全く理解ししていなかったと言う事だろうね。今更ながらそう感じた。
八百津に棲む者としての私は、テレビの画面を見続ける以外に、ひょっとしたら日本が終わってしまうそんな現実味のない(実感としてはなかった・・)恐怖に震えていた。連鎖反応で地球が人の住めないところになってしまうかもしれない。そして神仏に無事を祈るより他のする事の無い日々だった。
諦めた時期もあった。原発が爆発したら、広島や長崎の数千倍の破壊力と放射能汚染は必死なのだから・・・。
在日米軍「TOMODACHI OPERATION] も結構大きく取り扱っていた。
在日ルースアメリカ大使が本国に日本のフクイチの事故報告と今後の見通しを奉公するシーンもリアルでした。オバマ前大統領もでくる限りの援助を惜しまないと表明する場面もあった。
「 FUKUSHIMA 50」
何時大爆発をするかもしれない原子力発電所の中で真に死と向かい合って戦った50名の英雄・勇者の事はその当時欧米にも汎く報道されていた。そしてその勇気有る行動は讃えられていた。2011年の「ノーベル平和賞」候補にもなった。そして「スペイン賞」を受賞した。
私もその発電所に勤める職員だったならば、きっと死をも覚悟した「ベント隊」には「行きます」と挙手をしたと思います。山岳部事態、医者としての45年間にそのように訓練されてきたからで有る。しかし、その苦労は筆舌に尽くし難い艱難辛苦があったと思いを馳せる。
「FUKUSHIMA 50」の皆さん、有り難うございました。
あなた方の真に勇気ある行動を私達は忘れません。
令和2年3月17日 佐藤孝充拝
追記
映画館はガラガラでした。この映画が人気が無いのでは無くて、日本中が催し物・イベントの自粛中(中止・延期・縮小)だからです。
2月初めから続く「新型コロナウイルスCOVID-19)感染症」騒動が一向に終わりそうにありません。
どちらかといえば世界中を震え上がらせ、萎縮させている最中です。
この騒動はこの風変わりなウイスルが低毒性に変異しないと終わらないかもしれませんね。