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薩摩の国で考えたこと

             人との邂逅  

 

左からクリちゃん・美尋さん・陽・タカさん           為末 大選手

5月4日の夕方4時頃、レンタカーを返してホテルに戻ろうとしてナポリ通りに面したガソリンスタンドの方へ歩き始めた。陽と私である。ベンツから降りスタンドの店員さんと話す青年を見て思わず私が叫んだ。「陽、あの人って陸上の為末じゃない? 似てない』

陽はじっとその人を見つめて答えて曰く「いや!違う! あの人は兄貴の友達の。.」

「きっとそうだよ」「オヤジそうだよ」

その2人から視線を注がれた青年は天然パーマ気味の丸坊主で白いTシャツを着ていました。痩身です。

降りた車はベンツのSクラス・グレイシルバーです。2人で近寄ります。彼は全く気がついていません。駅の方に向かって歩き始めた背中に向かって思い切って声を掛けました。

「ねぇ お兄さん」「ひょっとして・・・・」

振り向いた青年は私と陽の顔を見るなりこう言いました。

「統君のお父さんと 弟さん・陽君でしたね。お久しぶりです。」

「やはりそうか!!思い切って声を掛けて良かった」

「ところで名前はなんでしたっけ」「思い出せない」

「栗本です」

「クリちゃんだね。統の結婚式以来ですね。」

「君がNICU(新生児集中治療)をやりたいといって鹿児島で働いていることは知っていますが・・・」

「まさかここで逢うとは・・・・」言葉が出てこない。

「お父さん達はどうして鹿児島におられるのですか?」

私はこんなふうに説明した。司馬遼太郎の小説の中では「翔ぶが如く」は「龍馬がゆく」と共に好きな本です。まあ 愛読書ですね。大河テレビドラマの西田敏行の吉之助は本物そのままだった。素晴らしかった。ずっと心に残っている小説でありテレビドラマです。去年の「西郷どん」で人気再び高まっているだろうから、その人気に乗ってもう一度やってきたのだ。吉之助の育った薩摩藩を感じて、毎日眼前に鎮座おわします桜島を眺めに来たのだ。「出来ればドカバイを経験したいと思ってね。

 そうそう、女房の美尋さんも一緒だ。今呼び出すよ。こうしてホテルの前で思わぬ再開を喜び合いました。栗ちゃんは鹿児島市民病院でNICUで働いている。研究もしている。小児科全般を勉強したいので来年沖縄の病院に移ります。陽にも興味があったら見学に来たらいい、きっといい勉強になるよとアドバイスをアドバイスをくれた。

お互いの健康を祝福し再開を約束して別れました。それにしても「ビックリ・ポン」「仰天のハプニングで」した。

別れた後美尋さんが話してくれたこと

名古屋出身  4大卒業後の愛知医大入学。実家は医療関係ではなく兄が家業を継いでいる。大学まで通学すると1時間以上掛かる。時間が掛かるのとで6年間の多くを統のアパートで生活していた。物干し竿にはLLのパンツが2枚(統)とMのパンツ(クリちゃん)が干してあった。

思うに、あの汚いアパートがとっても居心地が良かったんだろう。白いTシャツは彼の定番だよ。しゃべり方もそのままです。

 こんな事ってあるのだね。旅をするからこそですね。

 私はこの旅行に淡く期待するものが一つあった。それこそ雲を掴むような人捜しである。

名前も知らない。顔も知らない。棲んでいるところも知らない。鹿児島に棲む男性である事だけが唯一の情報である。例え天文館通ですれ違ったとしてもお互いの意識に昇ることは全くない。認識することは出来ない状況である。だから、あてどもない。さしずめウィリアム・ワードワースの詩「Daffodils(ダフォディル)」「の一節「I WONDER LONELY AS A CLOUD」を思い浮かべる程度の事柄である。

 

 

     「水仙」

谷や丘の上高く漂う一片の雲のように

私は一人さまよい歩いた

そしていきなり目に入ったのは

一群れの黄金の水仙

湖の傍に木々の下に

そよ風に揺れ踊りながら

 

 

     Daffodils(ダフォディル)

 

I wandered lonely as a cloud

⁠That floats on high o’er vales and hills,

When all at once I saw a crowd,

⁠A host of golden daffodils:

Beside the lake, beneath the trees,

Fluttering and dancing in the breeze.

 

                William Wordsworth.

 

クリちゃんに遭遇することがなければ、その人物(人の香り)と逢うことは私の意識下に昇ってくることすらなかっただろう。そんな存在である。淡い・淡い期待のまま消滅していくのだろうか。 

                                           脱稿  令和元年5月6日

 

翔ぶが如く・西郷どん・タカさん

 

 

3枚の写真を見て下さい。

最上段は1990年に放映されたNHKの大河テレビドラマ「翔ぶが如く」の主人公2人、西郷吉之助(後の西郷隆盛 西田敏行)と大久保一蔵(後の大久保利通 鹿賀丈史)が拳を突き上げ翔んでいる 

この写真はいつも私の心に残っていた。素晴らしい写真の1枚だと考えてきた。

尊皇攘夷から勤王の志士、2人が手を取り合って幾多の苦難を乗り越えて倒幕に導いた。

その功績は誰よりも大である。この2人なくして倒幕も維新もなしえなかった。しかし、吉之助は思想の根本は保守主義者だったのではないか。何度も島流しに遭いながらも返り咲き、情けに厚く人々の信頼を集めた人望かではあったが、革命家ではなかったのではないかと思っている。だったとしても彼の偉大さはいささかも揺るがない。明治天皇の父親であり前天皇である孝明天皇は明治維新直前の1897年に満35歳で突然崩御されている。天然痘が原因だと発表されているが、その余りのタイミングの良さに毒殺説が流布されてきている。何故なら陛下はガチガチの尊皇攘夷の思想の持ち主であった。尊皇攘夷を唱えて討幕運動に身を投じていた若者達にとって攘夷は倒幕のための口実だった。開国という国の基本的方針を先行独断で行った江戸幕府に対して対向するための攘夷に過ぎなかった。そのとんでもないことをやってのけるだけの器量のあるのは誰よりも艱難辛苦をなめてきた西郷以外になかった。司馬遼太郎がそう考えたのは、ある意味当然の推理だと思われる。同様の疑いは坂本龍馬の暗殺についても語られている。龍馬は既に共和国制のことを考えていた。江戸幕府を倒した後、どんな政府にするのか。日本にするのかの、その骨組みに共和制を考えるほどの進歩的な過激な思想の持ち主だった。西郷達のように藩を、武家社会の改革ぐらいを考えていた革命家には危険人物過ぎた。誰もが吉之助の懐の深さに、人間味溢れる暖かさに陶酔した。

私は「吉之助」さんの信奉者です。決して彼が孝明天皇の、坂本龍馬暗殺の首謀者であるとか、企画者であるなどと誹謗する意図はありません。

 この写真にはこれから日本を俺たちの手で変えていくぞという溢れんばかりの躍動感がある。日本という国を西洋列強の脅威から守り、日本を改革して世界に互していく国にするのだという強い決意が漲っている。人も国も若々しさに溢れ そのエネルギーの塊を2人が表現している。

 

真ん中は2018年に放映されたNHKの大河テレビドラマ「西郷どん」の写真である。

西郷隆盛の役は鈴木亮平が演じた。薩摩弁も上手だった。幕末の薩摩藩の名君斉彬公との出逢いそして重宝され,庄助どんと共に藩の中での台頭期、斉彬の急折そして安政の大獄、二度の不遇の島流しの時期等を詳しく丁寧に描写した。多くの日本人は吉之助の破天荒な人生の変遷に驚き・その生命力に称賛を送った。

西郷どんの西南の役の旗揚げ、蜂起はなんだったのだろう。決して拡張主義者ではなかった.例えば豊臣秀吉の如く諸大名の反対にも拘わらず自分の権勢欲のためだけに攻め入った朝鮮出兵とは全く別の論点だろう。だとしても何故それを原因にして官を辞し、下野して鹿児島に戻らなければならなかったのか。それでも尚且つ分からないのは明治政府に楯突いて武力蜂起をしなければならない理由である。そこがどうしても不可解のままである。完全に欠如している。もしかして、軍人は軍服を着れば誰もが戦争をしたがる。という格言の如しで、軍服に身を通した隆盛も勝手に勝算を建てて無謀な戦いを挑んだのか。

「敬天愛人」(天を敬い 人を愛す)

彼の座右の銘であったと聞く。「子孫に美田を残さず」として維新の参議に選ばれた後も赤貧の状態を甘受していた。

彼にこんな歌がある。私はこの素朴な詩情に打たれます。

雪をへて梅はますます白く

霜をへて楓はいよいよ紅し

なのに何故、彼は戦いを選んだのか?

単身江戸城に乗り込み、江戸城の無血開城を勝海舟と談判した「西郷どん」さん!!

貴方は、何をよすがとして政府軍との戦いに踏み切ったのか

 

最下段は70歳の私です

今回の鹿児島観光の折りに桜島をバックに飛び跳ねている写真を撮りたいと思ってきていた。桜島はどこからも眺めることは出来た。しかし絶好の場所はなかなか見つからなかった。仙厳園(別称 磯庭園)からの桜島を見た時 歴代の薩摩藩主と同じ心持ちになった。ここから見る桜島が最高だと。

何度も飛び跳ねて写真を撮り直した。カメラマンの陽も根気よく付き合ってくれた。幕末・倒幕の立役者群・薩摩隼人になった気分である。

翔ぶが如くの人生は終焉ですから、さしずめ「翔んでみました.おのぼりタカさん」かな。

                                   令和元年5月6日  脱稿

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