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私の平成の歩み  その  2

平成3年(1991年)

1月 酒向元先生と伊佐治省吾先生の御推挙により八百津ライオンズ・クラブに入会させて頂く。これにより、木曜日の午後休診であったのを水曜日の午後休診に変更する。

入会当時の会長多田さんは相互電器の社長だった。この年の八百津だんじり祭の本郷当本組は上石原だった。当本は伊藤正男さんだった。その当時は若い男の衆が沢山いたので42歳の私には花形の役回りは回ってこなかった。それでも年明けから毎週のように寄り合いをして積み上げていった。そして、これまでの苦労話を聞いた。思わぬ事が次々に起こってくる。試楽祭は1日雨だった。その夜も激しく降り続き、日曜日の本楽祭は四郷の寄り合い(本郷・芦度・黒瀬そして須賀組)で中止が決まった。ところが天気が回復してきたので急遽大舩神社に奉納することになったが、担当者は大騒ぎだった。

だんじり祭への積極的参加は、中学校の2年生の時にお囃子の太鼓をやって以来である。診療室はそれなりに順調だった。柘植文江さんの紹介で私の同級生の岩井礼子さんの娘・長谷川希さんを医療事務職として採用した。

6月には荒井悦子さんを看護助手として採用した。

7月、オヤジ・豊が血尿が出ると言い始めた。検査をすると多発性膀胱腫瘍だった。愛知医大に入院となり平田先生にTUR-bT治療をして頂いた。11月視力の低下を訴える。検査を受けると、網膜裂孔だった。眼科で光凝固治療を受けた。豊73歳の時である。ヘビースモーカーだったので膀胱癌は可能性があると思っていた。ある程度観念していた。

九州の雲仙普賢岳の大噴火・火砕流  多くの人命が失われる。島原騒動・肥後迷惑

外来の患者さんに義援金をお願いしました。佐藤クリニックの災害義援金活動はここから始まりました。

12月、ソ連のゴルバチョフ大統領が辞任をしてソビエト社会主義連邦共和国は崩壊した。ゴルバチョフは社会主義経済体制の国家の在り方に疑問を持っていた。「ペレストロイカ(立て直し・改革)」と「グラスノチス(情報公開)」を掲げ共産党の改革と国民の意識を変革させることに努めた。そして最終的にはソ連邦をソフトランディングで崩壊させる手段を選んだ。勿論、ノーベル平和賞を受賞しているが、彼への評価は低すぎると思っている。

10月、これまで乗っていたホンダアコードからトヨタのウィンダムに乗り換えました。

 

平成4年(1992年)

この年満100歳の誕生日を迎えた双子の姉妹「キンサン・ギンサン」はマスコミの寵児となり日本中でもてはやされた。実に可愛らしい老女姉妹だった。この頃は満100歳が珍しかった。平成30年頃の生存者数は、全国で50.000人ぐらい。

就職氷河期が始まり、突入する。その後20年近く就職難の時代が続く。

5月、加納南子さんを医療事務に採用する。

バルセロナオリンピックで岩崎恭子が200メートル背泳ぎで金メダル。ういういしさ、みずみずしさ、すがすがしさがピッタリの14歳の少女。週休2日制が導入され、公立学校では第2土曜日が休みになった。

 年末年始は野々村一家と八方尾根でスキー合宿をしました。

毛利衛さんがNASAのスペース・シャトル・エンデバーに登場して宇宙からの鮮明な画像を見たのはこの年です。日本人として最初の宇宙飛行士になったのは平成2年、TBSの記者だった秋田豊寛さんです。ソ連の「ミール」に登場しました。

 

平成5年(1993年))

開業して5年目、診療所としては順調だったが、忙しさにかまけていると体がなまってしまう。思い切ってジョッキングを始めました。そんな酔狂なことをしている人は誰もいない時代です。リーボックの真っ赤なシューズを買いました。2月には可児市の5キロに出場しました。きつかったですね。大正村8キロ、恵那の笠置山クロスカントリーなどに参加。4月、統は小学校の一年生。担任は中島先生でした。スポーツ少年団は小学校2年生からだったのですが,無理を承知で「八百津FC」に入団する。

Jリーグが始まりました。その当時「グランパス」のホームは瑞穂競技場だった。統を連れて観戦に行きました。

曙が外国人力士として始めて横綱になりました。

記録的な冷夏となりました。8月になっても空が降り続き梅雨明け宣言のない地方もあった。米不足騒動となり、タイ米を急遽輸入した。が、拙くてそのままでは食べられなかった。

10月、弘前のアップルロードマラソンに参加する(野中・鈴木・野々村・黒滝達と)そして花田澄人隊長(1979年カラコルムヒマラヤ遠征隊隊長)を国立病院に見舞う。
11月、揖斐川マラソン(ハーフ)に出場する。
12月、ライオンズ・クラブのYE留学生、レオン・リーを2週間預かる。私は胃・十二指腸潰瘍で倒れる。幽門狭窄状態だったが、入院はしなかった。12月30日、年末の診療を終え観念して入院したが、既に潰瘍は回復していた。入院したまま脱走して帰宅してしまう。

                            令和 元年 5月1日脱稿

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