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わが人生の師-第一章 舟生富寿教授

わが人生の師

第一章

  弘前大学医学部泌尿器科教授    舟生富寿

                   

                         平成29年12月逝去

 

タカサンの自分史を語る上でその人生の骨格となり、いまでも自分が生きていく上での糧となりバック・ボーンとなっている人々の事を語っておこうと思う。

 私の人生において最も大きな影響を受けた先生、それは弘前大学医学部泌尿器科教授舟生富寿先生である。いまでも泌尿器科教室で舟生先生のご指導の下、医学の研鑽に勤めていた時代のことを思い出すと万感迫るものがある。感受性の高かった20代の私の心に、体に強烈な印象が残っている。体に染みついているという表現が最も相応しいかもしれない。前置きはそれくらいにします。

 

舟生教授の思い出・邂逅 

<<逆鱗に触れる>>

 専門3年生(24歳 昭和47年)の時です。泌尿器科の試験をサボってしまいました。山に行くことが最優先の学生でしたから、「ウロ」だろうと「ギネ」だろうと常習のサボり医学生でした。下山したら直ぐに医局に鈴木助教授を尋ね、許しを請うつもりでした。が、下山が遅れ、医局にも顔を出している暇がありませんでした。そしたら舟生教授から直接の呼び出しが学内の掲示板に張り出されました。その当時から舟生先生の怒髪天を衝く様は学生の間でも有名でした。皆に脅かされて、おっかなびっくりで教授室をノックすると「佐藤君か!!まあ入れ!」と上機嫌でした。将来の希望聞かれました。「何も考えておりません」と答えると「泌尿器科はこれからの学問だ。是非専攻しなさい」「消化器外科は腹腔内外科だが、泌尿器というのは後腹膜外科ということだよ」と勧められました。その頃友人の楠美君はウロ入局を決めていました。

註  1

ウロとは UROLOGY 泌尿器科のこと、ギネとはGYNECOLOGY 婦人科のことです。

デルマとは DERMATOLOGYのことです。

 

<<話が違う>>

卒業間近い昭和49年の1月頃にウロの医局の新年会と麻雀大会がありました。臨床研究棟の下を歩いていたら「佐藤!」と呼ぶ声がしました。見上げるとウロの医局から楠美君が叫んでいました。麻雀のメンツが1人足らない。数合わせに加勢してくれと頼まれました。まだ、進路は中途半端のままでした。国家試験が終わってから考える。最大の難関を目前に控えている。その難関通過が限りなく不可能に近い状態でその先の人生に進路なんて考えない。受かりそうにないから迷わないというのが私の持論・方針だったのです。

 軽い気持ちで、晩ご飯をご馳走になるぐらいのつもりの参加でした。宴会の挨拶で教授が6人目の入局者を紹介する。「岐阜出身の佐藤君だ」

「えぅ!話が違う。そのつもりはない」と立ち上がりかけたのですが、皆に止められました。そんなつもりはないがなぁと思っていたのですが、話はどんどん進んでいってしまい、いつの間にか大学院に進めということになった。困ったなぁと思いながらも、国家試験に落ちれば仕切直しだ。抗わないと決めました。ところが不合格筆頭候補の私は、国家試験に合格してしまいました。そんな経緯で舟生門下生に加えて頂きました。

この年、江場、古川、楠美、菅原、戸田、佐藤の6名が入局しました。

註 1

入学した年に「インターン制度」が廃止になり、医学部卒業後の研修制度は宙に浮いたままでした。少なくとも国家の制度としての卒後研修医制度はありませんでした。大学の臨床系講座の医局員を選ぶ者、大学院進学を目指す者、自主研修医制度を持つ病院に勤務する者等様々だった。

 

<<鷹揚郷勤務>>

鷹揚郷は昭和49年6月から始まりました。私の医者人生と同時スタートです。

青木先生(故人)が病院長、小野寺先生が医局長、菅原君と私がノイヘレンの医局員、合計4人で始まりました。透析患者さんも10人ぐらいだったと思います。看護部門は田沢婦長、石岡主任、以下10名ぐらいでした。舟生先生は月曜日の午後に、総回診をされました。泌尿器科のことも知らないが、腎不全のことなど、全く何も知らないままの免許書を貰っただけの医者ですから大変です。看護婦さんや、患者さんの方が遙かに知識が豊富です。質問されるとシドロ・モドロとなり、いつも小野寺先生に助けて貰っていました。青木先生(故人)はパイプをふかしてニコニコしておられました。舟生先生も腎不全治療に、透析治療に心血を注いでおられました。病院と研究所の拡張工事、大型コンピューターの導入、電子顕微鏡の導入、検査室の充実と先頭に立って指示をされておられました。無菌室を作り、本格的に腎移植の出来る一大拠点を目指しておられた。血液透析の本当の黎明期でした。鷹揚郷には県外からも沢山の患者さんが紹介され、夏過ぎには満床になりました。 その頃、教授は青磁色の「プリンスのスカイライン」を持っておられましたが、運転手は、セミプロの鈴木さんでした。あの車素敵でした。舟生教授は持ち物のセンスも素晴らしかった。私が25歳、教授が50歳ぐらいだったと思います。若かった時代です。

                      著書「医学寛歩の歩み」の中の写真集から

<<ある日の総回診>>

 舟生教授の総回診は月曜日の朝9時から行われるのが常だった。日曜日の夕方になると、病棟主治医が続々と集まってきる。総回診準備である。手術所見を書く、検査所見を整理する、カルテの記載を見直す、温度板との睨めっこ、実に様々であった。

模様は様々であったが、気持ちは一致していた。明日の総回診が無事終わりますように! その一念だ。時間の経過と共に医局で宴会が始まった。成瀬・平山・古島先生達の話に聞き入っていたのはこの頃である。教授の無理難題への対処、手術方法の工夫、全てが興味深く新鮮だった。

そして、月曜日の朝、鈴木助教授以下病棟担当医は緊張の時を迎える。看護部門も同じだ。小山内婦長、工藤主任、保村・葛西看護婦達、佐々木看護助手、研究室の二河原、寺山、寺田、古沢も参加していた。みんな直立不動である。

 右手を挙げ「やぁ!おはよう!ご苦労!」と笑顔だ。全員の顔に安堵の表情が浮かぶ。回診が術後回復室から始まる。遠藤先生(故人)の説明が始まる。きめ細かい観察ときちんとした文字で書かれたカルテに教授も頷くのみである。出足が順調だと最後までスムーズだった。ヤリ玉に挙がることの多かったのは小野寺、成瀬両先生だと記憶している。「君はSchwach Sinn だな!」「考え方がeinfach なんだよ」「mangel だな」「Ruckenmarkで考えるな」「Gedankenngangがダメなんだよ」とコテンパンにだった。Schwach Sinnは愚鈍、 einfach は単純、Ruckenmarkは脊髄、脊髄反射思考を意味。

 敢然と挑む強者もいた。大野先生(故人)との論争は迫力があった。大野先生はカルテを投げ出して教授と対峙したこともある。ぴりぴりと神経が張り詰めた瞬間である。我々駆け出しにも、厳しかった。 何も分からず、下を向いて「申し訳ありません」が精一杯だった。

厳しい回診の夜は、教授自ら音頭をとって医局でビールを飲み、鍛冶町に繰り出した。 武藤外科時代の思い出話を楽しそうに語られた。宍戸先生が福島県立医科大学から戻られ東北大学にウロ講座を開設された。武藤外科からも人材を出すこととなり当時腎臓外科を担当していた私が助教授に迎えられた。教授就任当時、舟生に手術をさせてみろとtbc(結核)のネフレク(腎摘出術)が用意されていた。もちろん難なくやり、評価を得た事などのエピソードを手振り身振りでを交えて語られた。アメリカ留学時代の事等も楽しく面白く語られた。そして、研究も大切だが、まずは信頼される医師を育てることが私の使命だと力説されていた。酔うほどに「月の砂漠」を朗々と唱われた。

 

月の砂漠を はるばると

旅のらくだが 行きました

金と銀との くら置いて

二つならんで 行きました

 

 

歌い終わられるタイミングで「お供」が呼んであった。ご愛用は「共同タクシ-」でした。

このタイミングは成瀬先生が抜群に上手かった。

<<弘前膀胱>>

時代は、昭和40年代の前半だったと想像します。東大の教授は市川天皇、京都大学は稲田教授の時代です。舟生先生は昭和37年に東北大学泌尿器助教授から初代教授として赴任されていた。神戸大学の泌尿器科は昭和41年石神先生を大阪医科大学から迎えた。日本の泌尿器科外科の黎明期の頃です。

東北大学武藤外科で手術をさせたら右に出るものがいないと言われる程の腕の持ち主だった舟生先生は、赴任後、膀胱全摘後の尿路変更術としての弘前膀胱(初代)を考案され造設しておられた。

以下舟生教授の話を想い出しながら私が自由に加筆しました。事実誤認があるかもしれません。

 ある時、神戸の石神教授の紹介状を持った患者さんが教授の新患外来を受診した。紹介状を開けると「膀胱全摘を受け現在は尿管皮膚瘻の状態である。が、患者さんは膀胱に蓄尿して尿道から排尿したいという強い願望を持っておられる。そこで私は、弘前大学に舟生教授を訪ね、代用膀胱を造ってもらいなさいと説明をした」と石神教授の自筆で書いてあった。患者さんはすっかりそのつもりだった。

さすがの舟生教授も困られた。

「再手術で代用膀胱を造る!」「頭を抱え込んでしまったよ」・・半分笑顔で、半分こまったのだという顔をして話されました。術後3ヶ月の状態だったので舟生先生は患者さんにこう言われた。

「1年待ちましょう」

「1年後再発がなかったら手術をしましょう」と・・。

「内心、来ないで欲しい。諦めて欲しいと願いながら帰ってもらった。」

自信はお有りだったのでしょうが、淡々と話しておられました。

ところが、1年後、「先生お願いします」と件の患者さんは入院してきた。

断れないから代用膀胱を造って神戸に帰ってもらった。「いやまあ!ベラスツングがすごかった。たいへんだったよ」

「勿論元気に帰ってもらったよ」

ビールを旨そうに飲みながら、話される舟生先生のお姿が今でも目に浮かびます。

註  1

今では誰も使わないと思いますが、私達の頃はストレスとは言わないで、ベラスツングと称していた。

 

 <<パキスタン遠征を願い出る>>

昭和54年(1979年) 私は弘前大学カラコルム遠征隊(HUKE79)に参加した。自らが計画の中心者の1人だった。パキスタン政府から登山許可が届き遠征隊が正式に発足した53年秋、教授に許可願いをした。舟生教授の反対は覚悟はしていたが、予想以上だった。

「私は許さない。」

「弘前では君の親代わりのつもりで面倒を見てきた」

「親として許す訳にはいかない」

「佐藤君、指が凍傷でなくなったらメスを持つことは出来ないぞ!!」

と、もの凄い剣幕だった。

 その場に居合わせた医局の先生方も固唾を呑んで見守っておられたことと思います。

 その言葉の中に弟子を想う気持ちがひしひしと伝わってきた。「必ず生きて帰ってきます」「弘前大学の名誉をかけて遠征し登頂してきます。」と返事をした。最後まで赦しは出なかったが、餞別を頂いた。有り難かった。遠征隊はテラムカンリⅢ峰初登頂の栄光を手にしたが、一人の隊員の命と引き換えになってしまった。

 当時は遠隔地に電話をすると電話代が膨大に積み重なる仕組みだった。これが結構負担だった。「先生。鷹揚郷の電話を使わせて下さい。」と破廉恥にも厚顔にお願いしました。訳を話すと、「仕方ないな」と許可を頂きました。

                                                                               結婚した時に頂いた絵画(昭和53年)

<<私の心に残っている舟生先生の姿 そして語録>>

 火曜日 木曜日が手術日だった。膀胱全摘+尿路変更術のような大きな手術がある時は鈴木助教授や工藤先生に任せてあっても心配しておられた。「無事終わりました」という院内電話があるまで教授室と医局を往復しておられた。連絡があると、厳しかった顔つきが温和になられ、お茶を飲んで「お昼ご飯を食べ始められた。

 いつも口癖のようにして私達弟子に話されていたことも書いておきたい。

「百人の患者さんから一つのことを学ぶのではない。」

「一人の患者さんから百のことを学ぶのだ。」

「漫然と診察をするな」とよく諭された。

私も平成元年の開業以来、その教えを守り続けて開業をしております。少なくともそのつもりです。

 舟生先生に強く憧れるのは泌尿器科教室教授を退官後も弘前に残られたことです。そして、退官後も多くの弟子達に「フニューイズム」を語られたことです。

<<訃報に接して>>

    東三河泌尿器科医会参加の同門の泌尿器科医                  舟生先生を囲む同門

                                左から大野和美(個人)、三木明教・成瀬克邦・足木淳男・

                                       古島浩・筆者

平成29年12月日曜日の晩に楠美君からからメールが届く。「舟生教授が亡くなられた。」

詳しいことは分からない。が、お酒を飲んでいると涙がこぼれました。

俄に信じがたく、受け入れがたく豊橋の成瀬先生に電話する。

泣いておられました。涙声で「親父が死んじまったよ。佐藤君」と寂しそうに万感の思いを込めて語られました。

 一杯弟子を育ててさ、その弟子が皆立派になっているのだから・・・ 親父もここまでよく生きたよ。悔いはないだろう

「良くても悪くても朝から晩までの全てが舟生教授」だった時代は終わったね。

こんな事を2人で語り合いました。

素晴らし舟生一家でした。

弘前大学医学部泌尿器科学教室の医局員として一 時期を過ごせたことを本当に誇りに思います。

舟生先生有り難うございました。お世話になりました。

 

<<思いを新たに>>

 私は平成元年に故郷で開業して以来、 春4月には筍を、秋10月には栗金飩を送らせて頂いてきました。その都度、教授直筆の葉書の礼状を頂きましたい。これが素晴らしい。珠玉のように内容、達筆な筆運びにいつも女房と2人で感歎しておりました。私の大事な宝物です。処がこの数年は奥様からの礼状に変わりました。ちょっとお疲れかなぁと思っておりました。(蛇足 しかし、奥様からの手紙は教授の手紙を凌駕するものでした。文の才無く、悪筆である自分が情けなくなります。) 

 

 

             著書「医学寛歩の歩み」に揮毫された書 

 振り返る時、教授の優しさと厳しさが漸く理解出来始めた。烈日の厳しさは、医局員時代には、不条理であり辛かったが、親身になって怒り、一緒に喜ぶという教授の心が少しだけ分かり始めた。分かり始めたので、次回、同門会でお目にかかる折には「先生の師としての厳しさと優しさが少し分かり始めました」とご挨拶したかった。

 

             開業時に頂いた中根千枝画伯の絵画とその裏面の揮毫

 「燕雀焉くんぞ鴻鵠の心しらんや」

舟生教授の心中は私には計り知ることは到底叶いません。叶いませんが、浅学非才な者なりに推察し受け継いでいきたいと思っております。

                                

先生から頂いた「色紙」

大事に大事にしております

 

          

      子 温 而 厲   (おんにしてはげし)

 

      威 而  不 猛  (いにしてたけからず)

 

      恭 而  安   (きょうにしてやすし)

 

                                                                      論語より

 

註 1

 原稿の大半は同門会誌に投稿したものを加筆訂正したものです。その中でも<<ある日の総回診>> は、平成30年7月16日 舟生富寿名誉教授をしのぶ会で発表しました。

 その時はチョットパフォーマンスもしました。先ずは、舟生先生の遺影に向かってその死を悼み深々とお辞儀をしました。そして、マイクを取って「今、教授に聞きました。私が色々と喋ってもいいか?と」「いいぞ!佐藤君。存分にやり給え」と返事を頂きました。

と断って話し始めました。

「月の沙漠」は、私が[EINES  ZWEI  DREI]と掛け声を出し全員で唱いました。

註 2

「弘前膀胱」は古家先生が岐阜大学泌尿器科教室教授に決まった折に、「お祝いの言葉」として書いたものです。こんなエピソードの残る外科系の教授になってくださいという激励のつもりです。

 

                                                                脱稿  平成30年8月31日

「医学寛歩の歩み」

先生が残された著書である。暇な時、何かにつまずいた時、先生を偲びつつ読むのが私の楽しみです。

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