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序章  幸帽児 夢・勇気・友情(3Y)を語る

序章

 

ホーム・ページを立ち上げたが、医療情報だけでは色気が無い

色々の思いつくままを、徒然に書きます

名付けて「タカさんの徒然草」 

兼行法師さん、名前を無断拝借します

ご免なさい

初回は何にしましょうか

迷っちゃいました

生い立ちとこれまでの人生の総括から始めます

還暦の機会に岐阜県医師会雑誌に投稿した原稿を大幅修正加筆しました

 

 

      幸帽児  夢・勇気・友情(人生の3Y)を語る

 

己丑(つちのとうし)昭和24年  玄武 幸帽児誕生

1月8日に産まれした。その日の朝、羊膜を被ったまま産婆さんの到着前に勝手に出て来てしまった。祖母(佐合すう 父豊の養母)がその羊膜を破ってくれ、漸く「産まれてきたぞぉー」と産声の挨拶が出来たそうだ。勿論産院でもなく、病院でもなく自分の家で生まれました。このエピソードを祖母からよく聞かさました。そして「お前はあわてん坊だからね」と微笑みながら諭された。祖母は私を佐藤の、 ㊤(マルジョウと読み、我が家の屋号です)の家の跡継ぎとして溺愛し、「たかさん!たかさん!」と呼んで可愛がってくれた。甘やかされて育ったからか、私はやんちゃだった。というよりも臆病だった。保育園もなじめなかった。小学校も好きになれなかった。私には2歳年上の姉と5歳年下の弟がおり、姉(鈴代)は勉強もよく出来、利発で、友達からも好かれ、同級生の中でも際立った存在だった。先生達には「スーちゃんの弟か!」と話しかけて頂いたが、姉と比べられるのが気にいらなかった。5歳年下の弟(兼雄)は陽気でお茶目で、ちょっと親分肌の人気者の「カネチャン」だった。 ㊤の跡継ぎと言われるのはイヤだった。親父(豊)は、自分の思い通りにならない出来の悪い私達には厳しかった。気にいらないと、機嫌が悪いとよく叱られて、体罰を科せられた。ほっぺたを叩かれ、頭を拳骨でゴツンとされた。最後は土蔵の中に閉じ込められた。何せ、父・豊は5尺8寸の大男だったので一生のうちに一度も刃向かうことが出来なかった。親父の教育から得た教訓は「子供は体罰では教育出来ない。育たない。」という強い信念だ。谷間の私は少しメランコリックだったかもしれない。

 後日談であるが、医学部の専門課程で最初に購入した金原出版の「解剖学」書の欄外にこんな記載を見つけた。西洋では羊膜を被ったまま産まれてくる赤ちゃんを「HAPPY CAP(幸帽児)」と呼ぶ。何となく、無性に嬉しかった。そうか、俺は幸せな星の下に産まれたんだと反芻した。

 小学校時代の私は、病弱でよく学校を休んだ。夜中に、早朝に酒向元(故人)先生のお世話になった。救急医療体制が無い時代の献身的な診療態度は今でも私の診療の原点であり、開業としての鏡であると胸に刻んでいる。

 

辛丑(かのとうし)昭和36年  青春・志学 

 その春、八百津中学に入学した。その翌日、僕を可愛がり、育ててくれた祖母が亡くなった。その朝、おばあちゃんに挨拶をした。寝ていたが変わりなかった。その夕方、みんなに看取られて静かに息を引き取った。昨日まで喋っていた祖母の体が冷たく、呼びかけても返事がなかった。初めて経験する親しい肉親の死だった。高校一年の秋(昭和39年)には東京オリンピックが開催された。東京消防庁音楽隊のファンファーレが鳴り響き選手団の入場、そして最後に聖火に火が点された。最終ランナーの坂井義則は、昭和20年8月6日生まれの広島市出身。日本陸上界のホープでした。女子バレーボール決勝戦の興奮「ソ連、オーバネット・オーバーネット」のアナウンサーの声、国立競技場でトラックに入ってからの円谷光吉と英国のヒートリートの大接戦は忘れられない。円谷は3位、銅メダルでした。中学校の同級生に佐藤美保ちゃんがいた。彼女は64年東京オリンピック100メートルの補欠であり、66年アジア大会では優勝した。次回の優勝は2010年の福島千里まで待たなければいけない。(44年振り、広州)

同級生の、郷土の誇りだった。中学時代には放送陸上で全国優勝を果たし憧れの女性だった。翌年(昭和40年)は岐阜国体が開催された。最終聖火ランナーを務めたのは、岐阜高校3年生古田肇さん、現〔平成29年4月〕岐阜県知事である。その頃、16歳で自動二輪と軽自動車の免許が取得出来た。今では想像もつかないだろうが、その当時オートバイは高校生の乗り物だった。私は、1年の冬に御嵩町の自動車教習場に通って軽自動車の免許を取得した。昭和43年、一浪〔イチロウではなくて、ヒトナミ)して弘前大学医学部に入学した。時代は学生運動の真っ盛り、入学した弘前大学も2年の夏休み、大学本部が封鎖され教育は完全に麻痺状態となった。「破壊と再生が革命の原点だ」という「全共闘」の主張に共鳴しながらも、「ノンセクトラジカル」であることから脱却は出来なかった。それでもフランスとジグザクの両デモ行進には意志を持って参加した。又、クラブ活動では全学山岳部に籍を置いた。山登りが、山に行くことが第一義であり、最優先した。結果として授業も実習も実によくサボった。「古きよき時代」というより「余りに自堕落な時代」であった。「青春切符真っ最中」のなせる暴挙・暴動だと反省しつつも、懐かしい。

 医学部に入学したけれど、「医学への興味」は「?」だったし、「お医者さんになる」

つもりも「?」だった。面接があったら「ゼロ点」不合格間違いなしの学生だった。考え方は変わらず、卒業後の進路も「医者になる」それとも「文化人類学者になる」(石田英一郎の考え方に感ずるところがあった)のか迷っていた。 

後日談であるが、IPS細胞の研究でノーベル賞を受賞された山中教授はこんなエピソードを披露されている。「医学部(イガク)時代は、ラグビー部(ラグビー)に属し、没頭していた。」「余り真面目な学生ではなかった。よく授業をサボってボールを蹴っていました」「山中さんは何学部(ナニガクブ)と聞かれる」と決まって「ラグビー部(ラグビー)」と答えていました」

 私達は工藤先輩からこう教えられてきた。「佐藤さんは何学部(ナニガクブ)ですか?」と聞かれたら、こう答えろ。」「山岳部(サンガクブ)です。」「イガクブの前にサンガクブだ」。

お互いに、医学部の学生である前に「ラグビー部・部員」であることに「山岳部・部員」であることに誇りを、矜持を持っていた。日本を代表する世界的科学者と才能皆無の開業医の共通点である。

癸丑(みずのとうし)昭和48年   朱夏・而立

超低空飛行、墜落・長期欠席等の苦難を越えて最終学年に進級していた。これまでに基礎医学では、生化学や病理学に魅入られるものを感じながらも、己の学力とのギャップの深さにたじろぎ、結果として怠惰であった。臨床実習は興味深かった。俗に言えば面白かった。実習が終わった後も担当した患者さんのことが気になり病室に顔を出し、様子を聞き、話をした。詳細な病歴を聞き取ることを一生懸命学んだ。49年3月、無事卒業。国家試験も下馬評を覆して合格した。友人に勧められるままに、誘われるままに弘前大学の泌尿器科の医局に入局した。腎性高血圧・腎不全という病態に興味を覚えライフワークにと決めたのは、2.3年経ってからのことだ。医局員としての団体生活は、面白く快適だった。「外科系の医者は動け」「座って考えるな! 歩いて考えろ」と青木先生に、成瀬先生に、古島先生に活を入れられ乍らの研修の日々は、充実していた。総回診の月曜日の朝は病棟全体に緊張感が漲っていた。舟生教授には古き良き時代の古武士の独特の雰囲気があった。そして瞬間湯沸かしだった。それでも、患者さんの前で罵倒されるのは辛いものがあった。終わった後、病室で患者さんに慰められたことも何度か有った。「不肖の弟子」とは私が自分につけた勲章だが、叱られても、怒られても私は舟生教授が好きだった。

昭和54年、パキスタンのカラコルム登山遠征隊を組織した。入部以来の、10年来の夢を実現するのだ。隊はテラムカンリⅢ峰初登頂の栄光を手に入れたが、岡正憲隊員の命と引き換えになってしまった。8月5日、岡・工藤・黒滝の3名が初登頂を果たした。その様はトランシーバーを通じて全員が耳にしていた。翌6日、消耗戦の3ヶ月が報われ、喜びに満ちあふれた遠征隊のベース・キャンプに黒滝・工藤両隊員が血相を変えて飛び込んできた。岡さんが、残り1キロでベース・キャンプという地点でスノー・ブリッジを踏み外して流されたというのだ。「暗転」とか「天国から地獄」・・・そんなものでは言い表せない。何としてもこの大自然のむごい仕打ちを許せなかった。(生き残ってしまったものは多くを語るべきではない)翌日氷河湖に沈む岡さんの遺体を見つけ引き上げた。荼毘に付す薪もなく、土葬にする土地もないシアチェン氷河だ。ここは。小高い岩山に墓標を立て、水葬にした。

ごめんなさい・岡さん!

置き去りにしてしまって。

これも後日談であるが、ヒマラヤ遠征参加を報告した後、母・美喜は父に随分と叱られたようである。「お前の教育の仕様が悪い」「医者になったのだから患者さんの為にという気概が全くあいつにはない」「誰が許可をした」「俺は許さん」とたいそうな剣幕で怒鳴りつけたようである。母が、私をどんな風に庇ってくれたのかは知らないままである。翌年3月、帰国した私を笑顔で出迎え「そうか!元気で帰ってきたか!」「生きて帰ってきたか!」と顔をクシャ・クシャにしながら喜んでくれたことはよく覚えている。

 昭和56年、弘前大学から愛知医科大学泌尿器科に移籍した。翌年、岡さんの弔い合戦の意味も兼ねてネパールのヒムルン・ヒマール登山遠征隊に再び参加した。岡さんと話しながら氷河を歩き、岩壁を登りました。この年は時間切れで登れなかったが翌年弘前大学隊は初登頂することが出来た。58年4月、34歳で結婚。素晴らしい私の理解者に巡り会うことが出来た。この機会を逃がす訳にはいかなかった。今も私の最良の伴侶である。

乙丑(きのとうし)昭和60年  白秋・不惑

愛知医大の講師として、診療・研究・教育と充実した日々を送っていた。61年、37歳の時、長男が誕生する。出産は立ち会い分娩だった。泣き続けるわが子を抱く。この子もこの地球上の空気を吸っているのだ。感動の瞬間であった。64年、昭和天皇が崩御される。天皇の御代がかわる。自分も変わるべき時期に来ている。そう思い始めた。学者になるのは諦めた。地域医療も面白そうだ。故郷の八百津に帰ろう。田舎の開業医を目指した。平成元年10月、生まれ故郷の八百津で開業する。高く掲げた志とは裏腹に苦難と苦労が多く、大変だった。診断・治療・その結果全てを私が一人の判断で責任で遂行することの恐ろしさに身が、心が震えた。が、職員に恵まれたことが一番の幸運だった。新米の私を受け入れてくれた八百津の友人・知人の好意が、有り難さが身に沁みた。必死で頑張ったというのが実感である。当時の木沢彰加茂医師会長(故人)には開業の「イロハ」を教え込まれ、頂いた「教育勅語」の額は、大事な宝です。平成6年11月、第2子が産まれた。妻の懐妊を知った時、私は既に45歳だった。ある決心をした。この子の為に若い父親(若造りのパパ)でいよう。その為にはランニングをマラソンをやろう。出産の5日前に始めてのフル・マラソン(揖斐川マラソン 4時間15分)を完走した。平成7年には、医療法人統陽会(長男統・次男陽)を開設した。

丁丑(ひのとうし)平成9年      知命

開業して9年目を迎える。「愚考岩を穿つ」をモットーに脇目も振らず頑張ってきたのだという満足感が少し出て来た。そして、信頼され、開かれた医療機関としての在り方を模索した。患者さんとの情報の共有を優先課題とし、この年には薬剤情報を率先して出し始めた。平成12年には交通の便の悪い地区へのワゴンの運行を始めた。佐藤クリニック「ほのぼの号」とペイントされたワゴンが曜日と地域を決めて巡回し始めた。外来患者さんの送迎用ワゴンの運行の取り組みは他に先駆けて始めたと思っている。

電柱の宣伝ポスターなし、交差点の看板もなし。宣伝なしの「佐藤クリニック」です。謙遜なのか、思い上がりかと問われそうですが、根本はこうです。背伸びをして宣伝効果を求めない。医療は地道で、着実な積み重ねだ。それに勝る味方は無い。分かって貰える時が来る。それまで待つ。結果として 院長のランニング姿と「ほのぼの号」の町内運行が我がクリニックの動く宣伝媒体となった。

 平成14年にはレセプトのFD提出を始め、翌15年10月には全面的に電子カルテ化をした。これは難事業でした。電子カルテの画面は、診療室の私の机の左端に一台、私の右隣にはクラークさんと共に一台設置した。夏頃から十分なシュミレーションをしたつもりだったが、あちらこちらでほころびが噴出した。元に戻そうという提案も出たほどだがどうにかやり通した。手に入れたメリットは大きかった。紙カルテ置き場のスペースが空いた。そしてカルテを探さなくてもよくなった。場所を間違って整理されたカルテを探すという、あの膨大なロスがなくなった。そして、20年後にも30年後にもその時の診療録の記載が残る。今でも、久しぶりに受診された患者さんに15年前の受診の話をするとびっくりされる。薬剤の投薬ミステイクも格段に減った。17年には、レントゲン設備のデジタル処理化、20年にはレセプトの電送化にも着手した。

 振り返れば、本当に幸運に恵まれた人生であった。何度も、挫折をし蹉跌も経験したが、その都度家族の、友人の暖かい眼差しで助けられた。私の人生を総括する言葉を探せば、「感謝」である。

 還暦が近くなり始めた時、私はこう思うことにした。これから折り返しの人生を始める。折り返しの人生が始まると・・・。走り始めたフル・マラソンは94回を数え100回を目指していた。

 忘れてはならないことは平成3年から八百津ライオンズ・クラブに入会を許され奉仕活動に従事し始めたことである。(LIBETTY INTELLIGENCE OUR NATIONS SAFETY)クラブ主催の映画会を平成9年から4回開催することが出来た。

平成8年金色のクジラ、平成9年、5等になりたい 平成11年 ビザと美徳 12年 I LOVE YOU 最後に 郡上一揆

 

己丑(つちのとうし) 平成21年  還暦・耳順

この頃から私の母、美喜の痴呆症状が増悪し始める。佐藤の、 ㊤の家の跡取り息子としての当然の努めと、そして医学的興味もあって献身的に介護する。金銭管理が出来なくなったと思っていたら薬の服薬も出来なくなってきた。そうこうするうちに電話がしどろもどろになり、意味不明となる。物事に対する意欲もなくなってきた。階段を転げ落ちるが如くの病状の進行である。正気な時の母と、痴呆症の症状の激しい時の様の余りの相違にショックを受ける。

この年の9月、京丹後ウルト100キロマラソンに参加。(参加することに意義ありと割り切っていたが怖かった。山岳部先輩で人生の「イロハ」を、言葉で無く体で教えてくれた工藤さんに「やるじゃない」と褒めて貰いたい一心だったかもしれない)12時間30分という予想を遙かに凌駕するタイムで完走する。初出場初完走です。2010年5月、母を特別養護老人ホーム「敬和園」に預ける。平成23年(2011年3月) 長男愛知医大を卒業、時を同じくして3月11日には東日本大震災が起こる。福島第一原子力発電所も津波で全電源喪失からメルトダウンをおこす。1号機から4号機が壊滅する。これは絶対に人災だよ。            この年の「八百津だんじり祭本郷組」の栄えある当本役職を拝命していた。お祭り開催に日本中が賛否両論のある中、金子四郷当本と携えて祭りを成功に導く。快晴無風・桜満開・事故なし・百点満点のお祭りだった。写真集とDVDを記念に作った。東日本大震災に対しては己の信ずるところに従って義援金活動をした。2012年1月、母死亡。父も母も看取ることが出来たので大満足(開業医としての本懐)であった。2014年10月、くびきのウルトラ100キロを完走して、10回目の完走をする。フルマラソンは150回+αになる。2015年3月、次男が藤田保健衛生大学の医学部に合格する。2016年4月(67歳)、左L3の腰椎椎間板ヘルニア手術を受ける。12月から半年近く歯を食いしばって我慢したが、精根尽き果て、扶桑町の伊藤整形外科オペクリニックの門を叩き、内視鏡手術を受けました。土曜日の朝は苦痛に顔をゆがめ、腰を曲げ這って歩いていましたが、翌。日曜日の朝は穿刺部痛以外に苦痛なく、大手を振って笑顔で帰ってきました。月曜日からは普通に外来診療をしました。現代医学の内視鏡医学の進歩に唖然とし、大喜びをしました。「伊藤先生有り難うございました」

 29年4月末(68歳)の告白

心身の衰えを実感しつつも、歯を食いしばって頑張っている。「一息つこう」「一服したい」と思った瞬間に衰えは急速になり、積み上げたものは瓦解する。そう自分に言い聞かせて己を叱咤激励している。

 そう思う自分の横にはこんな自分も自覚している。駄馬でよかった。農耕馬でよかった。駿馬ならば、汗血馬ならば、千里の馬ならば、鏡に映った自分の衰えに自分を許すことは出来ないだろう。己の境遇の劣悪さに自暴自棄にもなったであろう。「タカさん」は、その意味で幸せ一杯である。一番劣ったものでも、努力を積み重ねることで人に誇ることを一つだけ産むことが出来る。人生は「信頼」と「忍耐」であると・・・。

そんな私を支えてくれたのは「夢」「勇気」「友情」の3Yである。

 

」(この文章は平成9年の新年号に掲載されてものを大幅に訂正・加筆・修正したものです。)

 

                          平成29年4月24日 脱稿

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