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伊勢湾台風から60年

伊勢湾台風(昭和34年9月26日 土曜日)から60年

 

私は現在70歳。60年前は10歳(1月産まれ)、八百津小学校の5年生の時だった。その頃は土曜日は休みではなくて「半ドン」だった。勿論午前中は授業が有ったと思う。何故なら、学校をが臨時休校にするという考えも、警報が出たら学校は休校などというシステムはなかった。その日の午前中・午後の天気のことは記憶にない。我が家では、翌27日(日曜日)に、祖父(佐藤兼三郎)の法事が予定されていた。道具倉に仕舞い込まれている「輪島塗りの漆器のお膳やお椀」、「久谷の盛り付け皿、徳利、大皿」などが活躍する日である。きっと午後はその手伝いをしていたのだと思う。佐合すう(父 豊の育ての親であり、産みの母である吉田きぬの妹)の従兄弟佐合三夫の妻 佐合じゅんえ叔母さんが手伝いに来ていた。この叔母さんは私を「 ㊤のタカさん!」「タカさん」と可愛がってくれたので大好きだった。夕方から風雨がひどくなってきた。明日の法事をどうするのか何度も話し合ってい。結論として料理も引き出物もみんな用意してしまった。今更、中止というわけにはいかない。最終的には明日の朝、台風の状況を確かめて決めることにした。雨も風もひどくなってきたがこれから先のことは何も分からない状況である。テレビとラジオで台風の状況を報じている。その頃は気象衛星なんて有るわけも無く、全国の定点観測地点からの報告と船舶からの報告だけで天気予報やら台風情報を出していたと思う。今でもNHK第二放送で午後4時から放送している「気象通報」のことです。おそらくこの情報に各測候所からの天気情報を総合して天気予報を出していたと思う。気象予報士の制度もなく、「ヤン坊マー坊の天気予報」も気象庁の発表をそのまま放送していたと思われる。調べてみたらこのなじみのある天気予報は昭和34年6月1日から放送開始されており、伊勢湾台風も報じているはずです。しかし、頼みのテレビもラジオも停電で電源が消えてしまった。ソニーのトランジスターラジオはまだ一般的ではなかった。TR-55が我が家におかれたのは伊勢湾台風後だったと思う。

 ロウソクの灯だけの夜だった。風と雨が時間の経過と共に激しくなってきた。特に風がひどかった。南向きの本座敷では、雨戸を雨が、風が激しく叩いた。そして柱が鴨居が、家全体が押されてねじ曲げられて「ギー」「ギィー」と鳴った。軋んだ。縁の下からの風で家が浮き上がるのではないかと心配した。屋根が飛んでいくのではないかと不安になって、芦度の叔母さんに聞いた。「大丈夫かな?」と尋ねた。返って来た返事は私を安心させた。「タカさんの住んでいるこの ㊤の家が、大屋根が風で飛んでいくはずがない。大丈夫だよ。」「この大屋根が飛んでいく時は八百津中の家が壊れてしまっているよ」

怖い思いをしながらも一夜が明けた。翌日の朝は風も止み雨も上がっていた。意外と被害もひどくなかったようだ。自転車で学校の方に降りていくと木が倒れていたり、道路にものが散乱していたが、倒壊している家はなかった。電気はどうだったか。電話は繋がっていたか、名鉄電車は動いていたか?記憶がない。が、その頃の生活は電気・ガス・水道への依存度は随分と低かった。炊事はプロパンガスを使っていたが、マッチの点火だった。水は井戸水と山からの清水だった。お風呂は焚き物を焚いて沸かしていた。テレビが見れないことが一番苦痛だった。電灯がつかなければロウソクの灯で勉強をし本を読んだ。電話はあったが子供が使うことは許されていなかった。自給自足ではないが、文明の利器がなくてもどうにか生活は成り立っていた。断っておくが、私は文明の発達を否定する立場の人間では決してない。文明社会礼賛者である。洗濯機を購入する事によって洗濯の重労働から解放された母の嬉しそうな顔は忘れられない。昭和33年秋、東芝のテレビジョンが我が家に鎮座ましました時は小躍りして喜んだ。寝ても覚めてもテレビのことが頭から離れなかった。お袋の隙を見てテレビにかじりついて観ていた。昭和34年、4月10日の当時の皇太子殿下(明仁親王)と正田美智子様の結婚式のパレードはテレビの一番前で食い入るように見つめていた。「テレビ時代到来」という時代の申し子である事を誇りに思っている。但し、自給自足の時代の名残も身につけていたというのが実情かもしれない。

 法事は滞りなく行われた。ラジオからのニュースでは名古屋などの臨海地帯では大きな被害があったようである。テレビジョンのニュースも名古屋の港区や、知多半島では死者も出たことや、床上浸水というより2階まで浸水した地域があると報じている。記録映画ニュースでは2階までの浸水がなかなか引かなくて、水分や食料を一軒、一軒船で運んでいたこと、何千人という死者が出たことを報ずる映像を見たことを覚えている。

しかし、小学校5年生の子供である。そんな事はすぐに忘れてしまった。というより自分の身の回りには何も被害がなかったので気にしなくなった。忘れていた。 何も被害がなかったわけではない。私の家は八百津でも有数の山林地主だったが、この台風で大きな檜が杉の木がなぎ倒された。結構の被害だった。風の通り道だったので隣の山は被害がないのに、我が家の山には爪痕がクッキリ残った。丸山ダムのダム湖を流れ着いた流木の上をワタって対岸まで歩けるらしいという話が聞こえてきた。クルミが取りたい放題だと話す友達もいた。私も流木の上をのり渉り、クルミを拾いたいと思った。晩ご飯の時に行きたいと話したらオヤジに顔がひん曲がるほどぶん殴られた。諦めた。

 昭和39年、八百津高校に入学する。2年次の担任は野村征子先生だった。八百津高校出身で愛知教育大学卒業。担当教科は国語(古典)だった。授業の合間、或いはHRの折に伊勢湾台風のことをポツリ・ポツリと話された。遺体の収容が毎日続いた。収容して遺体を洗って体育館に並べて安置して、冥福を祈る毎日だった。自分が被災しなかったことが不思議だった。奇跡だった。だから出来る限りの奉仕をした。何千人という人が亡くなったのよ。名古屋市の機能は殆ど止まってしまっていた。八高高野会でお会いする度に遺体収容の「奉仕活動」のことをお聞きしている。

ボランティアなどというハイカラな言葉は使われていなかった。「奉仕」なのか「献身的活動」と称されていたのではないか。

 

八高高野会

八百津高校昭和42年卒業3年C組の同窓会の名前である。1年次と3年次の担任だった高垣先生は逝去された。2年に1回、野村先生を囲んで同級会を開いている。勿論私は会長である。

 

伊勢湾台風のことを身近な話として次に聞いたのは愛知医大で働き始めてからである。私は昭和56年、弘前大学医学部泌尿器科から愛知医科大学泌尿器科学教室に転職した。翌年、新卒の羽田野幸夫君が入局してきた。彼の実家は港区稲永新田字ねだった。ある時、実家は海抜ゼロメートル地帯だという話になった。きっと干拓して開けた土地である事は住所から察知できた。「伊勢湾台風の時はどうだったの?」と聞いた。やはり高潮で家は水没したそうです。床上浸水などという生やさしいものではなかったそうです。「臭いし、食べるものはないし、どうなることかと思っていました」羽田野先生とは年齢は離れていないので、同じ台風を同年齢の2人が八百津の山の中と名古屋の海抜ゼロメートル地帯で経験した。

 東海3県を襲った最大の台風であるあの大きな台風から60年の歳月が経つのですね。

中日新聞も特集を組んでいます。

私も自分の記憶を確かめながら語り継ぎます。

 

 <伊勢湾台風> 1959年9月26日午後6時すぎ、和歌山県の潮岬に上陸。東海地方を中心に甚大な被害をもたらし、翌27日未明、日本海に抜けた。上陸時の中心気圧は929ヘクトパスカル。高潮による浸水被害をもたらし、海抜ゼロメートル地帯が広がる海部地域や名古屋市南部は大規模な洪水に見舞われた。死者・行方不明者は全体で5098人にも登った。名古屋港内には貯木場に多くの丸太が集め、保管されていた。高潮でこの丸太が流れ出し多くの家屋を破壊した。

 

ヘクトパスカルは誤りではないでしょうか?今現在の気圧の単位は確かにヘクトパスカル(1992年から)ですが、あの当時はミリバールだった。アメリカでは今でもミリバールである。勿論あの国は気温は「(華氏)」、長さは「f(フィート)」や「マイル(ml)など独自の単位系を利用し続ける米国らしいですねインチ、ヤードの国ですから「天上天下唯我独尊」のお国柄そのものです。

 

名古屋市の被害> 伊勢湾の奥にあり、海抜ゼロメートル地帯の広がる南区で被害が最も大きく、市内の死者・行方不明者1851人のうち、7割強の1417人を占めた。天白川に近い白水小では、本校と分校(現・柴田小)を合わせ、学区別では最多の142人の児童が犠牲になった。

 

伊勢湾台風

昭和34年(1959年) 9月26日~9月27日

 

高潮による被害顕著、

 台風による死者・行方不明者最大。

死者4697名、行方不明者401名、負傷者38,921名

住家全壊40,838棟、半壊113,052棟

床上浸水157,858棟、床下浸水205,753棟など

(消防白書より)

 

 9月21日にマリアナ諸島の東海上で発生した台風第15号は、中心気圧が1日に91hPa下がるなど猛烈に発達し、非常に広い暴風域を伴った。 最盛期を過ぎた後もあまり衰えることなく北上し、26日18時頃和歌山県潮岬の西に上陸した。 上陸後6時間余りで本州を縦断、富山市の東から日本海に進み、北陸、東北地方の日本海沿いを北上し、東北地方北部を通って太平洋側に出た。

 勢力が強く暴風域も広かったため、広い範囲で強風が吹き、伊良湖(愛知県渥美町)で最大風速45m/s(最大瞬間風速55m/s)、名古屋で37.0m/s(同45m/s)を観測するなど、九州から北海道にかけてのほぼ全国で20m/sを超える最大風速と30m/sを超える最大瞬間風速を観測した。

 紀伊半島沿岸一帯と伊勢湾沿岸では高潮、強風、河川の氾濫により甚大な被害を受け、特に愛知県では、名古屋市や弥富町、知多半島で激しい暴風雨の下、高潮により短時間のうちに大規模な浸水が起こり、死者・行方不明者が3300名以上に達する大きな被害となった。 また、三重県では桑名市などで同様に高潮の被害を受け、死者・行方不明者が1200名以上となった。この他、台風が通過した奈良県や岐阜県でも、それぞれ100名前後の死者・行方不明者があった。

 

令和元年の9月

今年の夏から秋にかけて沢山の台風が日本列島を襲いました。

相次いで日本に上陸してきます。

8月15日   台風10号

漸く四国に上陸します。速度が遅いのでこの一週間テレビの話題を独占してきた。『記録的大豪雨』100-1200mlと言われている。

山陽新幹線は終日運休。甲子園も中止。お盆の催し物が中止。帰省客は大混乱。

8月6日マリアナ近海で発生。その後小笠原の父島辺りで発達し、北西に進んだ。そして14日から北上をはじめている。20KM/Hでは鈍行列車並みである。

15日頃から秋雨前線が刺激されて九州北部では断続的に激しい雨が降る。線状降雨帯(人参雲)が西からどんどんやってくる。

9日8日    台風15号発生

9月9日 重陽の節句

小笠原当たりから北上して伊豆半島から北東に進路を変更した15号が未明に東京湾から千葉に上陸する。65万戸が停電状態です。洪水なし。死者はいない模様だ。始発から止まっているJRと私鉄の在来線。千葉県で風速59メートル、雨は酷くない。成田空港 13.000人超が一夜明かす 台風で鉄道やバス止まり。高速道路も閉鎖状態です。これは余りにお粗末様です

09月11日 42万戸の停電が続く。関東では10.11日と35℃を越える暑さ(27年振り)熱中症で数名が亡くなる。

9月12日

千葉で大規模停電続く…都内から車で1時間の地域が“孤立化”!? なぜ?

「復旧に遅れ」見通しの甘さも・・・東京電力が会見

千葉県を中心にした大規模停電か9月12日で4日目。千葉県では約33万1500軒で停電が続いているという。東京電力は当初、9月11日までに全面復旧を目指すと説明していたが…。なぜ大幅に遅れているのか?

9月23日

2週間たった23日でも1900軒の停電家屋がある。この停電が一番厄介な後遺症だろうね。そして屋根が吹き飛ばされた家屋も多く、ブルーシートを貼って雨風を凌いでいる状態である。

17号台風(22日、23日)は、被害は微々たるものであったが、日本海側ではフェーン現象で新潟、富山で35℃を記録した。

追記

この昭和34年4月10日には明仁親王(平成天皇陛下)のご成婚のパレードが行われた。

敗戦後15年、国を挙げての復興が実を結びはじめた頃である。そんな輝かしい年の9月に

大きな大きな台風がこの東海三県を襲ったのである。

                          令和元年9月23日  脱稿

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