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八百津が産んだ偉大な外交官 – 杉原千畝への雑感(2018年04 月15日加筆)

過去〜現在
現在〜未来
未来〜過去

過去~現在、現在~未来、未来~過去

 

未来志向に「世界記憶遺産登録」を目指す

「杉原リスト(八百津町)」がユネスコ世界記憶遺産の国内候補に選定
平成29年(2017年)のユネスコ世界記憶遺産登録に向けて八百津町より日本ユネスコ国内委員会に申請(平成27年6月)した「杉原リスト―1940年、杉原千畝が避難民救済のため人道主義・博愛精神に基づき大量発給した日本通過ビザ発給の記録」が、平成27年(2015年)9月に国内候補(申請数16件のうち2件)に選定されました。
平成28年、ユネスコ世界記憶遺産の登録に向け、ユネスコ本部への申請を行いました。最採択決定通知は平成29年(2017年)の夏頃になる予定です。
これまでに日本から登録された世界の記録を調べてみました。2011年の「山本作兵衛による筑豊炭鉱の記録画」、2013年の「慶長遣欧使節関係資料」と「御堂関白記」、2015年の「東寺百合文書」と「舞鶴への生還」があります。これらの世界の記憶(遺産)は、人類が有史以来営々と築き、営んできた歴史の記録の断片みたいなものです。記憶すべき、残すべき文化遺産ではあるが、人類が、地球上の人々が共有すべきものなのかどうか疑問に思っています。どの記憶遺産も詳しいことは全く知りません。知らないまま誤解を恐れないで書けば「過去の記録の遺産」です。

 今回、八百津町と岐阜県が中心になって登録しようとしている命のビザを含む「杉原リスト」と「記録物の内容」は違います。杉原千畝(過去)から現在の私達へ、そして現在の私達から未来への遺産です。未来の人々も千畝を誇りに思う。そんな3つの時の輪をどんどん大きくしていく。

 彼の身の危険を顧みぬ崇高な行為は、人道主義的思想と勇気の証であり、今の私達が、未来の人々と共有し、語り継ぐべき人類の叡智の遺産だと思っています。彼の発給した2000余のビザは世界中にその芽を育て続け、真に現在完了進行形です。私達人類のかけがいのない前を向いた遺産です。「命の輝き」を感じます。上手く書けませんがそんなふうに思っています。その偉大な人道主義者であり故郷の先輩であるセンポの事を語ります。

(注)
文中杉原千畝のことをセンポと書くこともあります。区別はありません。

(注)
一般的には世界記憶遺産と言われていますが、「世界の記憶」が正しい名称のようです。ユネスコの正式名称はTHE MEMORY OF THE WORLDです。

(注)
杉原千畝は松岡洋右外相の命令に背いて無断でビザを発給しました。しかし、それだけでユダヤ人は日本国を通過出来たのでしょうか。正式なビザではあるが、色々の難題を出して入国を阻止、或いはアメリカへの出国を阻止し、強制送還という手段もあったはずです。(ドナルド・トランプ米国大統領は入国ビザを持つ難民入国一時禁止令を発令し、7万人の入国を阻止しています。2017年1月末の事件です。)元来、日本人はユダヤ人に対して憎悪を感じてはいなかった。反対にアインシュタインが来日した折には彼を大歓迎し、講演会は大盛況だったと聞きます。勤勉な国民性、そして欧米帝国主義列強に対する反発心(?)等、お互いに共鳴し合うところが多い国民同士だったかもしれません。このところでは三国同盟を結んだとはいえドイツに協調しなかった可能性もある。そして、その当時、日本はアメリカと一触即発の険悪な関係だった。開戦前夜だった。そんな中、日米開戦の回避を考えていた関係者は、ユダヤ人救済策を模索していたようだ。アメリカの政財界に影響力を持つユダヤ人、そのユダヤ人の欧州からの脱出をサポートする。満州国にユダヤ人租界地を作るという計画もその一方策だっただろう。そしてセンポの独断を苦々しく思うも黙殺した。こんな遠謀深慮もあったようである。

 

杉原千畝の写真とパンプレット

杉原千畝の写真とパンプレット

 

私と杉原千畝

<平成元年(1989年)開業>
私が生まれ故郷の八百津に戻り、開業医を始めたのは、この年の10月です。それ以前からテレビジョンのドキュメンタリー番組や、報道番組を通じてセンポの名前は、その人道的行為は知っていました。政府の命令に背いて通過ビザを発給し数千人のユダヤ人を救った外交官として認識し、意識し始めました。「俺がその立場だったら同じように悩むだろう。だが、悩んでもビザの発給をするだけの勇気はないなぁ」というのが私の結論でした。そしてセンポが八百津出身であることも知りました。

<平成3年(1991年)人道の丘公園と名誉回復>
この年から5年(1993年)にかけて人道の丘が建設されました。八百津町を一望出来る小高い丘です。「世界平和をテーマに平和を奏でるモニュメント」として建立されました。今でも定時になると噴水が噴き出し、160本(その当時の国連加盟国数)のセラミクスのパイプが平和への願いを奏でます。夕方はちょっと幻想的です。
この年10月、外務省は杉原千畝の遺族(未亡人と長男)を外務省に招いて彼の名誉を回復させた。名誉回復の第一歩を踏み出した。1847年の半ば追放に等しい辞職勧告から44年の歳月が必要だった。
驚いたことには八百津町には、千畝の足跡がまだまだ沢山残っていました。北山地区には千畝の母親の生家があり、彼を語り継ぐ人が生存されていました。知人、親戚の方から逸話を診療室で聞きました。糖尿病の治療に通う女性の患者さんは財布の中に写真を大事にしまっていました。丸山ダムで撮った大事な記念写真を見せて貰いました。そしてその正義感に溢れ、自分の信念を貫き通したセンポという人間に少しずつ興味が湧き、惹かれ始めた。

 

丸山ダム公園にて撮影(杉原千畝は左から2人目)

丸山ダム公園にて撮影(杉原千畝は左から2人目)

 

<平成10年(1998年)9月映画「ビザと美徳」>
大垣で開催された杉原千畝をたたえる会主催の映画会に参加しました。「ビザと美徳」(アカデミー最優秀短編賞受賞作品)、25分間の短編映画ですが、身が震えるほどの感銘を受けました。これは八百津でも映画会を開催しようと決心して帰ってきました。

<平成11年(1999年)3月映画会を開催>
半年の準備期間を掛けて映画会開催にこぎ着けました。その時配布した文章から

映画「ビザと美徳」鑑賞の呼びかけ
八百津町内の小・中学校の皆さんこんにちわ!
きょうは、皆さんに「ビザと美徳」という映画の案内・紹介をさせて頂こうと思います。第二次世界大戦前後、ヨーロッパではナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺迫害がありました。その時リトアニアの領事代理だった千畝は日本政府の反対を押し切って、ユダヤ人にビザ(日本への渡航許可書)を発行しました。その枚数は2.000枚にのぼり、結果として6.000名以上のユダヤ人の命を救いました。この行いは大変なことでした。彼も真剣に悩みました。外交官として任務に忠実であるべきか?それとも自分の信念に基づいて行動すべき?その尊い行為故に彼は「日本のシンドラー」と呼ばれています。
小学校の低学年の皆さんには、映画で描かれている内容・ビザを発給することに対する千畝の苦悩等、十分にその内容が理解出来ないところがあるかもしれません。しかし、杉原千畝というあなた方の偉大な先輩を身近に知る最初の勉強材料にして下さい。
高学年の皆さんには、白黒、字幕スーパーという映画の面白さ、表現力・迫力ということも学んで貰えるのではないかと思っています。そして、本当の勇気ということ、その勇気があってこそ優しさが生まれるという事を実感して欲しい。
中学校の生徒さんには、正義感に溢れ博愛精神を培うこの時期に、この映画を心に刻み込んで欲しいものです。
そして、卒業していく3年生の生徒諸君!!
新しい環境で、新しい友人に「八百津ってどんな所・何があるの??」と聞かれた時、胸を張って「杉原千畝が生まれ、彼の功績をたたえた人道の丘がある」と語って下さい。
そして、この映画での感銘を、感じたものを熱く語って下さい。
杉原千畝という素晴らしい先輩を持っているということは八百津に住む我々の大きな誇りです。そしてその誕生の地のライオンズ・クラブとして、彼の人類愛とその偉大な功績を一人でも多くの人々により深く理解して欲しいと思っています。その模索から今回の映画のプランを考えました。
3月14日(日)ファミリィセンター大ホールで君たちと再開出来るのを心待ちにしています。

1999年3月
八百津ライオンズ・クラブ

(注)
杉原千畝記念館の開館は2000年ですので、映画会が上映された時点ではまだ開館していません。

 

「ビザと美徳」の鑑賞後の日記から
「ビザと美徳」は杉原千畝のリトアニア領事時代のビザ発給にまつわるジレンマの日々を描いた秀作です。領事館にビザ発給を求めて押し寄せてくるユダヤ人に対して、彼と奥さんの苦悩の日々は続きます。悩み、苦しみながらも命令に反してビザの発給を続けるのですが、ついに本国政府から帰国命令が届き、リトアニアを去る時までを描いた、白黒・字幕スーパーの25分ほどの映画です。彼の偉大な功績を現すには充分な内容とは言えないかもしれません。
私自身はこの映画を昨年9月、大垣で上映された折(大垣にある「杉原千畝を讃える会」開催のレビン教授の講演と映画会)に見る機会を得ました。
淡々と映し出される場面の連続で、映画「タイタニック」のように特別感動的な場面は有りません。しかし、最後リトアニアの駅で最後のビザを発給し許しを乞いながら別れを告げる場面は「熱い」です。

千畝はビザを発行することが出来なかったユダヤ人の手を握りこう語りかけます。
“PLEASE FORGIVE ME”
“GOOD BYE”
が、ビザを貰えなかったユダヤ人は寂しさ無念さを浮かべながらも確信を持って答えます
“DON’T MIND”
“WE DON’T FORGET YOU”
“THANK YOU”
素晴らしい場面でした。

 

映画「ビザと美徳」のポスター

映画「ビザと美徳」のポスター
ご希望の方には貸し出しますのでご連絡ください

 

<平成12年(2000年)杉原千畝記念館建立正式に名誉回復顕彰>
7月31日杉原千畝記念館会館開館記念日は彼の命日
生誕100年を記念して彼の偉大な功績を讃える記念館を人道の丘に建立
初代名誉館長 鈴木充(東海テレビ会長ハルピン学院の後輩)
二代目名誉館長 鈴木宗男
10月10日
外務省が公式に杉原千畝の功績を認め、外交史料館に「顕彰プレート」を作る。
2,169枚のビザで6,000余の命を救われ、今では40,000人以上が生存している。杉原千畝の知名度は年と共に高まり記念館を訪れる人は年々多くなっています。外国人では圧倒的にイスラエル人が多い。駐日大使も訪れたことがある。
今でも2~3,000人/毎年のイスラエル人が「人道の丘」を訪れる。
記念館で圧倒的な存在感を誇るもの、それは発給ビザ証です。陳列されているシルビア・スモーラーさんのそれは、ビザ発給リストの459番目。
その後もセンポに対する日本人の、世界からの関心は高まりつつあります。その機運の高まりが今回の「世界記憶遺産への登録」という運動になったと思います。彼の功績を顕彰するには真にピッタリのアワードです

註 1

シルビア・スモーラー氏は2017年8月の『スギハラウィーク』に来日され、『世界記憶遺産』登録に向けて八百津町で基調講演をされます。

 

 

人道の丘公園のパイプオルガン(右端)と杉原千畝記念館(左端)

取材を終え国枝館長と記念碑の前で

取材を終え国枝館長と記念碑の前で

シルビアさんのビザ

シルビアさんのビザ

 

<平成27年(2015年)映画「杉原千畝スギハラチウネ」>
結構評判になった映画です。唐沢寿明と小雪が共演しました。皆さんもご覧になったと思います。あらすじは省略します。気になっているところだけを書き記しておきます。

この映画は祖国日本のために太平洋戦争を回避しようとした一外交官の物語り
1950年(昭和25年)一人のユダヤ人(ニシュル)が外務省を訪ねる。対応する役人(関満一朗を滝藤賢一が熱演していました)から「在籍しておりません」「現在も過去も・・・」と突っぱねられる。ニシェルは通過ビザを示しながら「この一枚の書類が私の命でした」「必ず探し出す」「我々は忘れない」「たとえ世界の人々が忘れても・・・」と言って去る。この映画は原題名「ペルソナ・ノン・グラータ(ラテン語:Persona non grata)」だった。その意味するところは、「厭わしい人物」「好ましからざる人物」という外交用語の一つ。当時のソ連から突きつけられて、彼はリトアニアに転勤になった。次ぎにナチスからも突きつけられベルリン退去を命じられます。そして戦後は、日本国外務省からも「ベルソナ・ノン・グラータ」を突きつけられたのです。
お前は世界を変えたいと思ったことがあるか?俺は常にそう思っている。彼は友人達に常にそう語っていた。センポは理想主義者でもあった。
そして、ハルピン学園の教えをいつも胸に秘めていた。
それはハルピン学院創設に関わった後藤新平の言葉

 

自治三訣
「人の世話にならぬよう
人の世話をするよう
そして報いを求めぬよう」

 

ウラジオストックの領事(根井 三郎)も同僚だった。

又、杉原千畝記念館の初代名誉館長の鈴木充氏も後輩です。

 

後藤新平は初代台湾総督府長官を務めた。中国の清朝も統治に手を焼いていた台湾であったが、地道な努力で台湾の近代化に尽力した。今でも台湾では後藤新平は開国の祖として尊敬を集めている。初代満州鉄道の総裁として大活躍した。関東大震災の後の東京の復興の基礎を造った。現在の東京の基礎を画いた人である。

死を迎えた頃の口癖は

金を残して死ぬのは下、

仕事を残して死ぬのは中

人を残して死ぬのは上

であった。

 

 

 


天草丸で日本に向かうユダヤ人が日本列島の島影を見つけて歌う国歌も印象的です。

 

ハティクバ(希望)イスラエルの国歌
希望は今も失われることはない。
二千年の我らの希望とは
自由の地シオンの地
エルサレムで生きること

 

戦後、商社勤務をしていたセンポに、驚くべき事が起きます。
1968年(43年)10月モスクワの赤の広場でニシュリと遭遇する。彼は28年間センポを探していた。あの外務省に関満一朗を尋ねたニシュリです(記念館の記載によれば、この年の8月イスラエル大使館からセンポに連絡がありニシェルと再会した。ニシェルはボロボロのビザを手に涙を流して再会を喜んだ。センポも自分の行為が無駄ではなかったことを知り、苦労が報われた気がしたと書かれている。)
1985年イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を貰う
1986年永眠する

余談


杉原千畝の行為を真っ向から否定した父・佐藤豊
杉原千畝のことが報道され始め、その崇高な行動が高く評価され始めた平成の初めの頃のことです。報道は戦後の日本政府の余りに冷たい態度に批判的であり、センポ・スギハラのビザ発給を賞賛し、英雄視していた。
が、「父・豊」の意見はこうでした。もてはやすことが面白くなかったようである。
「孝充!」「おんしの考えはマチガットル」「目先の時流に乗った軽々しい風潮に踊らされるじゃない」
親父の主張は、言いたいことは要約するとこうでした。
戦前の、しかも太平洋戦争勃発直前は日本中が不況で堪え忍んでいた。歯を食いしばって耐えていた。政府の言うことが正しいとか、大本営の発表が間違っているという事を考える前に、戦場では目前の敵を倒し、戦に勝つことが絶対正義だった。負ければ死ぬのだ。戦争とはそうしたものだ。戦争は絵空事ではない。人道主義だの、博愛主義だのを持ち出して戦争が出来るものか。そんな理論は、終わった後から評論家が持ち出してくるだけだ。
俺(豊)に言わせれば杉原さんの行為は間違っている。官僚が、役人が国の命令に背いてどうする。意見は言っても良いだろう。が、命令があれば従うのが当然だ。おまえ等(孝充とその同調者)のような、戦争を知らないものが、あれこれと当時のことを批判するのは、国の為を思って戦死した何百万という戦没者に対して申し訳が立たない。千畝の名誉は回復させてやるべきだ。だが、英雄視するのはおかしい。
父は合計6年間ぐらい兵役を務めたようですが、その兵役時代を語ることは殆どなかった。身長5尺8寸、体重18貫の偉丈夫な通信騎兵、日本陸軍の花形だったはずだ。それでも、戦争中の体験は「語ったら生きていくことが出来なくなるほどに辛いことの連続だったのだろう」と今は思いを馳せている。寡黙を貫き通すことだけが生き延びてしまった兵士の、戦火に散った戦友へのせめてもの手向けだったのかな。

 

杉原千畝発掘史(名誉回復の道のり)

「ベルソナ・ノン・グラータ」の烙印を度も押された杉原千畝にスポットライトを当てたのはなんと言っても鈴木宗男自民党代議士(当時)である。彼は外交委員長時代に杉原千畝の存在を追求し外務省の倉庫に残っていたセンポの資料を探し出させた。そして外務政務次官時代(平成3年1991年)にその存在を外務省に認めさせ、今までの非礼を詫びさせた。平成12年(2000年)、外交史料館(東京・赤坂)に「顕彰プレート」を作らせたのも彼である。そして杉原千畝記念館の名誉館長に任命されたのだが、平成14年、刑事事件で逮捕・起訴された為に解任され、現在に至る。有罪判決を受けた彼ではあるが、ここまでの経緯からすれば彼の功績は非常に大きいと思います。かって、杉原千畝を「好ましからざる人物」と定義して置き去りにした過ちを私達は再び繰り返そうとしているのではないでしょうか。果実だけを摘んでその礎となった人をないがしろにするのは寂しい気がします。
今回の世界記憶遺産登録が成就した暁には鈴木宗男の功績も讃えてほしい。せめて、彼の努力の経過を記録としてきちんと残してほしい。

鈴木宗男氏は平成29年4月30日、公民権を回復しました。

政治活動も再開するようです。

私自身は個人的には、自己顕示欲と我の強い鈴木宗男氏は好きではありません。(中にも書きました)

それでも、これを機会に政府に働きかけて「杉原千畝発掘に対する正当な評価」をして貰いたいです。

 

 

 

 

平成天皇・皇后両陛下の杉原千畝記念館への行幸を臣民として希望する

両陛下は平成22年(2010年)5月、バルト海沿岸の三カ国を歴訪されました。そして最後の訪問国リトアニアの首都ビリニュスでは、杉原千畝の記念碑に立ち寄られました。この記念碑は彼の母校である早稲田大学が寄贈したものです。ビリニュスには彼の名前を冠した通りもある。両陛下はアダムクス大統領夫妻とともに、記念碑に歩み寄り、埋め込まれたビザの写真製版や、杉原氏の顔のレリーフにじっと見入っておられたと当時の新聞は報じています。
今年(平成29年)の夏には「杉原千畝と命のビザ」は世界記憶遺産に登録されます。登録が成就した暁には天皇・皇后両陛下をお迎えして人道の丘から「世界平和」をアピールして頂きたい。
あの過酷な時代に己の信念に基づき、助けを求めるユダヤの人々に救いの手を差し伸べた千畝の心を讃えて頂きたい。未来に向けた平和への努力、平和の存続を切望する意識の大切さを訴えて頂きたい。こんなことを書くと不敬罪という言葉が思い出されますが、切実にそう思っている。
この言葉を書いて、今回の筆を置く。


平成29年2月6日脱稿

 

明日世界が
滅びるとしても
今日あなたは
リンゴの木を植える

マルティン・ルターの言葉(開高健も好んで使っていた)

 

今回の「お知らせ」を書くにあたって以下の方々のお世話になりました。
有り難うございました。

  • 杉原千畝記念館の国枝館長と職員の皆さん
  • 佐藤クリニックの患者(田中さん 伊藤さん)
  • 佐藤クリニックの職員

追記と加筆

2017年8月4日(金曜日)

杉原千畝氏は唯一の希望」 「命のビザ」生存者講演   於  ファミリーセンター

杉原千畝の発給した「命のビザ」でリトアニアから脱出した、米国在住の医学博士シルビア・スモーラーさん(85)が講演し「杉原氏は生き残る唯一の希望だった」と語った。 スモーラーさんは、杉原氏の行動について「私の命を救い、まだいなかった息子の命も救われた。どれだけ多くの人々の命を救ったことか」と讃えた。
講演会は大盛況でした。駐車場も一杯でした。

2017年10月31日(火曜日)

杉原千畝の功績と命のビザの世界の記憶への登録は見送られました。何故? 何故??

ユネスコの事務総長(元フランスの文化相)の考えている事が分からない。政治的配慮ですか?

それよりも何よりも、長男(統)の結婚式で大嘘をついてしまった事が悔やまれる。常日頃、嘘をついて生活していますが、今回のは打撃が大きい。「八百津町に誇るものが2つあります。1つは「だんじり祭」です。・・・・そして、もう一つは「杉原千畝とその命のビザ」です。この10月には、世界の記憶に登録されます。・・・・・・」と挨拶をしてしまいました。

あの時点(10月7日)では、確信していた。誰もが登録されると思っていた。今回の登録見送りは返す返すも残念です。

        
                                               

以下のホームページも参照させて頂きました。

杉原千畝をたたえる会
http://www.geocities.jp/tataerukai2004/

特定非営利活動法人 杉原千畝命のビザ
http://www.chiune-sugihara.jp/jp/index.html

電話・FAX

TEL.0574-43-1200
FAX.0574-43-9050