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美喜が語る佐藤家の歴史(その1 隠居にまつわる話 平成30年12月24日 補足)

 

 

 

                     赤線の枠内が佐藤家の敷地(グーグルアースから借用)

                                                                          ドローンで撮影した実家の全貌(後藤板金撮影)

                        座敷の大屋根

                 平屋なのだがほぼ2階の高さに大屋根が造ってある

                   家の造りは夏を旨とすべし(兼行法師の徒然草より)       

 

㊤の一角・隠居を毀す

タカサンの徒然草を書き始めた時からいつかは自分の家のことを書き残したいと思ってきていた。しかし、なかなか筆が進まない。あれも、これもと考えていると筆の歩みが鈍り、思考が止まり、物思いにふけって時が過ぎてしまう。

今回、隠居を毀すことに決め、重い腰を上げました。「佐藤家の歴史(秘密)」を気力のある内に書こうと、蛮勇を奮い起ち上がりました。記憶を辿る。生前に美喜から聞いていた話もメモも保存してある。「美喜が語る佐藤家の歴史(秘密)」としてファイル保存してきた。隠居のことを姉に電話して聞くと赤い糸はどんどん手繰られてきた。

ここを出発点にして、美喜(私の母)が話してくれた ㊤の家のことを少しづつ書こうと思う。

大半は聞きかじりのことばかりである。真偽の程は確かめようがない。そしてある意味確かめては身も蓋もない。私小説のつもりはない。しかし、史実に基づく貴重な歴史書では全くない。単なる、もうろく老婆(美喜のこと)の語りをチョット味付けして読み易くしたものに過ぎません。言い訳はこのくらいにしておきます。

   正面の建物を取り壊した              11月2日 快晴  取り壊し始まる

平成30年11月2日(金曜日)

八百津町本郷のブランドの一角を担っていた ㊤の一角を毀し始める。

ヤジが死んだのが平成17年6月8日。そしてその ㊤の財産を相続したのが私である。私が相続して13年の月日が経った。相続した時の心つもりはこうだった。不動産はそのままにしておく。竹井町(本郷)の屋敷の建物は出来る限り管理しよう。そして自分の死期が近づいてきた時、取り壊そう。統や陽にどうしようもない、何ともならない代物(私達、鈴代・兼雄・孝充の3姉弟には思いで一杯であり、柱1本にも泣けてくる記憶があったとしても、統・陽には厄介者・粗大ごみ)を残してはなるまい。彼等の負担を多くするだけだ。今の私は、戸を開け、窓を開けて換気をし、お仏壇にお茶湯(おちゃとう)を供えるのを毎日の朝の日課としている。そうして目を配っているつもりだったが隠居の管理が疎かになった。6年前の漏電事故(後述)以来閉めきっておくことが多くなった。

それによる急速な老朽化がその主な原因であろう。夏に久しぶりに雨戸を開けたら床が抜けて落ちた。押し入れが雨漏りしている。水道は冬の間に管が破裂したらしい。水漏れが激しい。形を留めている間に取り壊そうと決めた。

建具を外し、畳を上げ、屋根の瓦をはがし始めたその現場に立つと色々の思いが塊になって押し寄せてくる。

 冬の寒い日、背中に陽を浴びながら本を読んでいた日々を思い出しますね。

我が家では唯一(一番)日当たりのよい場所でした。

高校に入学した年に、西谷の叔母さん親子が棲み始めた。女の子の名前は「かおるちゃん」だった。㊤の撚糸工場で働いてもらい、棲むところを提供するという形式だった。かおるちゃんを軽四輪自動車(マツダB360)に乗せてやったことを覚えています。詳しい事情は分からないが、その親子は1年足らずで出て行った。その後に、その妹一家(永田)が交代で住み始めた。勿論お母さん(ゆきちゃん)は撚糸工場で働らきながら3人の子供はを育てた。3人とも個性豊かで聡明だった。その中でも長男の若狭君は飛び抜けて利発だった。次男は要君、長女は渚ちゃんだった。長男は中学卒業すると製菓会社に勤めたが社長にその才能を認められ秘書のような仕事を任されていた。羽振りがよかった。次男の要君はだんじりのお囃子の助っ人に入って一週間足らずで全ての楽曲を奏でたという伝説を造っていた。ナギちゃんは大柄な美女だった。

 時代を遡る。

私の保育園時代は間組丸山発電所に務めた水津さん一家が住んでいました。

                 左側が隠居に棲んでいた水津康夫君

親子5人です。長男は コウイチ君、長女ユキちゃんは昭和21年生まれで姉・鈴代と同級生だった。次男の康夫君は24年生まれで、私(24年1月産まれ)の1学年年下だった。すばしこっこって、記憶力がよくて、要領もよい。私は1歳年上の格好のいじめられ材料だった。よく的にされた。気にいらないことがあると、下駄で俺の頭を叩くのだ。叩くだけ叩いて家に逃げ込んでしまうのだ・・

泣きながら私は、「アノイエハオレントコノイエダ」と思って口惜しさがこみ上げてきた。反応が一歩送れる私は叩かれっぱなしだった。それを見ていた、おばあさん(佐合すう 父 豊の育ての母)は悔しがった。「タカサン!やれれっぱなしじゃダメ」「今度叩かれそうになったらこうしなさい」と身振り手振りで教えてくれた。祖母の母親は尾張藩の武士であった。勿論そんなことでは勝てる相手ではなかった。やり返せなかった。小学校に入学する前に御母衣(みぼろ)ダムの建設に携わるということで引っ越してしまった。もう再び、逢うことは、接点を持つことはないと思っていた。というより、殆ど話題に登ることがなかった。が、15年ほど前のことである。テレビのクイズ番組で顔を見たのだ。多分、史上最強のクイズ王決定戦だったと思う。「??」「???}と思っていたら、東京の姉から電話が掛かってきた。「テレビ観ている!」「ヤスオ君だよ」「顔に覚えがあるし」「水津という名字も珍しいよね」「1949年生まれでしょ」

2人で興奮した。オヤジにその話しをすると実に懐かしそうだった。母は記憶が薄れていた。2人ともあの水津さん一家は利口だったなぁとその頃の話をしてくれた。その後彼のことを思い出すことはなかった。今度、隠居を毀すことになり色々思い巡らせた。そして、名前を思い出して、インターネットで検索してみると日本の初代のクイズ王としてその名前を残していました。クイズの世界では有名な人でした。白髪にはなっていましたが、顔に昔の面影を残していました。

 話を続けましょう

2012年10月22日  夜の10時過ぎに安藤君(佐藤クリニックのほのぼの号の運転手さん)から電話が掛かってくる。「ものが焦げたような匂いがする」「メリメリと音もする」という電話である。駆けつけると燃えている匂いがする。煙も立ちこめている。どうも漏電である。天井裏を覗き込むと煙るが立ちこめ発火寸前でした。とんでもないことが起きる寸前でした。大慌てで、伸宝伝説の玉置さんに電話する。伸宝電設の息子さん曰く。「焼け落ちる前でこんなに焦げているのは初めて見るケースだ」「すごいですね。」とビックリしていた。

ブレーカーが落ちないように配線が変更されていました。安藤君親子が新居建築のための借り住まいとして棲んだ事による漏電であり、彼等の発見によりとんでもない事態を防ぐことが出来ました。再配線は止め,このまま断線状態にしておきました。そして夏の避暑地・隠居を閉鎖しました。どんな暑い夏でも団扇だけで充分だった。蚊取り線香を焚いて本を読み昼寝(医学書は睡眠導入書としては最高だった。部厚いので枕としても重宝した)をしていると別天地だったが、扇風機も電灯も使用禁止とした。

 

㊤は私の家の屋号である。「」本郷のブランド」とは私が今回勝手にそう呼んだに過ぎないが、敢えて列挙すれば、大山、山崎実業、味噌平醸造、丸米、大川 、そして㊤であろうか。大きな家が建ち並ぶ。私の家も敷地面積1.000坪を超すが、その他の家もその規模だろう。本郷以外にも所謂「お大尽の家」が沢山あるのが八百津の特長である。昔は大いに栄えた川湊町だったのだ。

断っておきたいが、私は戦前の佐藤家( ㊤)がお大尽だとか金持ちであることを吹聴したいのではない.そんな意識はかけらもない。オヤジ・豊は幼少期の貰われ養子であり、母は隣町兼山の山本精麦から嫁いできた。つまり両貰いである。この2人に共通している意識は、俺の代では、私達の代ではこの身上を潰すことは出来ない。貰ったものをそのまま3代目の相続人(長男の孝充)に相続させることが、与えられた使命だ。と言う思いだった。その事を素直に伝えたいと思っている。

昭和25年頃から撚糸業を始めていた。扱う糸は「人絹」と「スフ」が主だった。原糸が東洋レーヨンや帝人から送られてくる。その原糸に撚り回転をかける仕事である。その撚りの強さによって染め具合が違ってくるのだ。染料は同じでも撚りの強さで色が違うのだ。八百津には撚糸屋を生業としている家が何軒もあった。美喜の一番上の姉「冨貴」の夫、山本三千雄昭和紡機社長の斡旋のお陰でかなりの利益を上げていたようである。

註  

高校1年(満16歳)で軽4輪自動車の免許を取得することが出来た。学校をサボって教習所に通い、欠席して岐阜の三田洞まで試験を受けに行った。高校1年の冬に免許を取得し、その春にマツダB360を買って貰った。

 

註 

初代クイズ王とか史上最強のクイズ王として対談本も著作本も沢山出版されているのですね。私の隣人であったかどうか知りたいのだが、最終的には曖昧とした、形があってないが如きに過去の中の「毀したくない過去」に分類してこのままパックすることにしました。あのテレビで観た「水津康夫」君は、私の大きな頭を素速く脱いだ下駄でパカーンと殴って家の中に逃げたヤッチャンに違いない。あのすばしこさがあってのクイズ王だ。

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