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歌舞伎 勧進帳(松本白鷗) 御園座柿葺落し

新しく造った御園座の柿葺落し公演

平成30年4月4日

「勧進帳」のあらすじ

讒言によって源頼朝から追われる事になった「義経主従」は奥州に逃れる途中で、安宅の関にさしかかる。詮議が厳しい事を予想した「弁慶」(九代目松本幸四郎改め二代目松本白鸚)の提案で「義経」(中村鴈治郎)は強力に身をやつす。安宅の関をまもる「富樫」(七代目市川染五郎改め十代目松本幸四郎)は勧進をしているという「弁慶たち」の言い分を聞いても、はじめは「たとえ本物の山伏でも通す事は出来ない」とつっぱねる。一触即発の緊張感は機転の利いた、そして叡山僧侶としての知識、そして「弁慶」の踏ん張りで切り抜ける。

「弁慶一行」が「それならば最後の勤め」といって祝詞(のりと)をあげると、もしかして本物の山伏かと思い始めた富樫は、更に、勧進帳を読むように言う。

「もとより勧進帳のあらばこそ」と弁じ別な巻物をさもそれらしく読み上げる弁慶。

覗き込む富樫

それを巧みに避ける弁慶

あまり見事に読み上げる様に「富樫」は、続いて山伏のことについて弁慶に問いただす。(この時の2人の見得は迫力がありました)

それをもすらすらと答えるので「富樫」は一行を本物の山伏と認めて関所を通そうとする。その時関所の番卒の一人が「強力が「義経」に似ている」と進言し、「富樫」は刀を構えて一行を呼び止める。ここは緊迫します。

 義経の家来たちが武力で押し通ろうとするのを「弁慶」は押しとどめ「不審に思われたのは、お前がその程度の荷物を重そうに持ったからだ」と「義経」を金剛杖で打ち据える。その様を見た「富樫」は、これは本物の「義経主従」であると「ハッ!」気づく。そこまでして庇う弁慶の必死の気持ちに心打たれる。そして自分が責任をとって腹を切る覚悟を固め、一行に通過を許可する。

 無事に関所を通りすぎたところで、「義経」は「弁慶」に「よく気転を利かせて自分を打ち据えて助けてくれた」と心から礼を言う。「弁慶」はいくら助ける為とはいえ「義経」を杖で打ち据えたりした事をわび、涙を流す(一生に一度だけの涙)。そこへ「富樫」が酒を酌み交わそうとやってくる。「弁慶」は感謝して酒を飲み(瓢箪2本を飲み干してしまう)、延年の舞を踊る。そして一行を先に発たせ、富樫に感謝しつつ後を追って花道を「弁慶の飛び六法」を演じながら去る。ここが格好いいね。手足の動きを大きく誇張して独特の仕草の踊り・演舞です。        拍手喝采そして{高麗屋」の屋号が投げかけられる

生の芝居の魅力一杯でした。歌舞伎なんて何も知らない方でも、イヤフォン・ガイドを借りれば、十分楽しめます。偉そうなことを書きましたが、私も借りなければ理解出来ません。歌舞伎役者の腰の据わった演技を観るだけでも十分楽しいですよ。

私が「勧進帳」を観るのは2回目である。

初回は2013年(平成25年)2月10日(日曜日)教育テレビで、市川團十郎の勧進帳を見ました。団十郎は同年1月に白血病で死亡しました。骨髄移植を受けてCR(完全寛解)状態だったのですが、肺炎を併発して夭折してしまいました。ものすごいど迫力の舞台でした。鬼気迫る感じがテレビの観客である私にも通じてきました。

今回の松本白鷗の弁慶と市川団十郎のそれを畏れ多くも比較してみました。

第一印象として白鷗の舞台声の通りが悪かった。弁慶の力強さが、義経を守るために全身全霊を以って信念を突き通す叫びの声が劇場中を通して響かなかった。音響効果の差、座った席の差 なのかもしれないが私のような素人には声の通りが悪いという印象を残した。

座った席も良くなかった。三列目は良かったが、右端、あれはA席に値しない。同心円でいけばかなり遠い。

観客の入り具合は7割の入りだった。

勧進帳は市川宗家の十八番だと思っていたのですが、松本白鷗(松本幸四郎)が、「弁慶」役を記録更新中でした。

正面奥に老松の絵がある。松羽目物といわれる作品である。この演目で松の絵を使うことは井戸時代には許されていなかったので、明治以降の作品である。

御園座は前と同じ場所に立っていました。が、隅研吾の建築意識を疑うところがありました。新国立競技場も彼の設計です。何となく心配です。

その1

1階に便所は一箇所のみ、男女が左右に分けて作ってない(普通は建物の左右に分かれている。特に劇場のように使う時間帯が限られている集合場所では混雑を避けるためにもそんな配慮が施された施設が多くなってきている。

その2

正面玄関入って右に曲がって左に曲がって、そこが劇場の最後部です。

花道が設けてあるから玄関の正面からは入れない設計です。

その3

回り舞台ではなかった。

御園座

明治30年(1897年)に最初の御園座が建立され、芝居小屋として開業する。昭和20年、3月5月の名古屋大空襲で焼失する。1948年立て替えられて再開する。東海三県下では一番の芝居小屋とした栄えた。1961年、火災で焼失する。御園座会館として3度目の再起をする。2011年、累積する赤字のため精算することとなる。2018年4月 愛知県、名古屋市などの官民あわせた支援を受けて「グランドメゾン御園座タワー」の2・3階に新しい演劇場を開場した。

子供の頃から御園座、御園座という言葉は耳に挟んだ記憶はあった。ハッキリと記憶にあるのは愛知医大泌尿器科医局員時代に、歌舞伎を見に行ったことからである。演目なんて覚えているはずがありません。その頃はイヤフォンガイドもなく、理解度は低かった。色々の創意・工夫を通して日本の誇る古典芸能を楽しむことが出来る環境が整ったことはよかったですね

 

 

歌舞伎の役者さんは名前が変わってしまうので訳が分からなくなってしまいますね。

チョット調べた範囲を書いておきます。

松本白鷗と中村吉右衛門(母方の祖父の養子になって中村を襲名・実母が義理の姉・戸籍上)は兄弟  

  松本白鷗(幸四郎)  ラマンチャの男  王様と私

             女優の松たか子は娘 息子は市川染五郎

             勧進帳の弁慶役を更新中

 

  中村吉右衛門     鬼平犯科帳

                           子供はいない?

市川団十郎家

  歌舞伎界最高の名跡。江戸歌舞伎のボス的存在で特に市川宗家(そうけ)と呼ばれる。荒事芸を創始した初世、「助六由縁江戸桜」を初演した2世、「勧進帳」を初演すると共に”歌舞伎十八番”を制定した7世、最高の人気役者でありながら大阪で謎の自殺を遂げた8世、明治の名優で役者の社会的地位向上を目指した9世、”海老さま”と呼ばれ天性の美貌で多くの女性ファンを魅了した11世など代々名優を輩出している。本姓は堀越で、先祖は甲州市川郷の出だという説もあるが定かではない。成田家、定紋は三升(みます)。

松本幸四郎家

  もともとは市川団十郎家の弟子筋にあたる。市川団十郎家に子が無い場合に、当家から養子を迎えた。4世、5世、11世の団十郎も当家の出身である。”鼻高幸四郎”と呼ばれ実悪を得意とした5世、生涯に「勧進帳」の”弁慶”を1600回以上も勤めたという7世、一時期菊田一夫に招かれ山田五十鈴・山本富士子らの女優と一座を組んでいた8世などの名優を生んだ。 高麗屋、定紋は四つ花菱。

市川團十郎家・中村吉右衛門家・松本幸四郎家・等の説明

http://ohanashi.edo-jidai.com/kabuki/html/fam/fam.html

 

 

中村・市川・松本・尾上家の家系図である。

http://kingendaikeizu.net/geinou/rien.htm

 

 

市川家と松本家の最近の系図・・・関係

http://www.eonet.ne.jp/~jawa/kabuki/keizu/keizu1.html

 

                                                     平成30年05月19日 脱稿

 

 

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