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八百津だんじり祭(その2 エピソード集)

八百津だんじり祭(その2 エピソード集)

 

エピソード  1  「男だけの世界」

旧八百津地区(正確に言えば本郷・黒瀬・芦度の三郷地区 或いは須賀を入れた四郷地区))に産まれ・育った者、そして今生活している人々にとって、だんじり祭は毎年の大きな行事である。ましてや、当本組を任され、担う自治会の人々にとってはその年の最大の関心事である。

私の子供の頃は4月15日が本楽祭、14日は試楽祭、13日日の午後には試し引きだった。男尊女卑の思想では絶対ないが、女性はだんじりに触ることは勿論、綱をまたぐことも赦されなかった。まあ、「「女人禁制」とか「男だけの世界」だった。

14日、15日は学校は当然休みだったが、13日の午後は男子のみ休みだった。だんじりを引くからである。同窓会で「お昼ご飯を食べると男子だけ半ドンだった」「羨ましかったし、なぜなのか訳が分からなかった」と話題にのぼり、問い詰められることがあるが、

そんな時代だった。

三月の初めに祭の袢纏(法被)の申込用紙が配られた。一本線(低学年まで)・二本線(小学校高学年)・三本線(中学生)と、袢纏の模様も違っていた。背中にマルホンの印半纏が配られると、その袢纏を荒川で水洗いした。汚れ物の洗濯物ではない、清めの神事であり禊ぎであると教えられた。勿論洗うのも、干すのも、片つけるのも「男の子」の仕事である。袢纏を着てだんじりの綱を触るのが誇らしく、楽しみだった。そんな世界だった。中学2年の時に竹井自治会に当本組の順番が来た。その当時から当本組は、木野・竹井・宮嶋・上石原・下石原の5自治会の順番交代制であり、現在もその制度を受け継いでいる。そして中学2年生男子にお囃子の太鼓が指名された。太鼓は3台、同級生は5名(赤塚・大池・佐藤・佐藤・佐合)、ジャンケンで決めることになり、私は運良く勝ち残った。2月の中旬から練習が始まった。「のぼり」から始まって「くだり」「つしま」「しんぐるま」を教えて貰った。

 太鼓の音は「だんじり」が近づいてきたことを知らせる大きな役目がある。思い切って叩けと教え込まれた。練習が終わると、お茶とお駄賃の菓子が貰えた。当本さんや組世話役の方々の話を聞くのも愉しかった。選ばれた1人であることが無性に嬉しかった記憶がある。

 

日本の社会は、男尊女卑を基本とした社会ではない。日本で一番エライ(?)神様である天照大神は女性である。女性の天皇陛下も明治以前には即位されています。推古天皇、持統天皇を始め10代ほどの女性天皇陛下が即位されております。男子に限るとした皇室典範が出来たのは明治時代です。

政治の世界に女性の進出が少ない、女性首相がいないのは女性蔑視でも何でもありません。

政治に魅力がなく、女性が関心を示さないだけです。

お祭りとは関係ない事柄なので止めます。日本人社会は、女性が尊敬される社会だったのです。それが、明治の文明開化で日本の文化の良いものが切り捨てられた。兎にも角にも、

女人禁制は男尊女卑ではなく、面子で生きている男を立てる行事ですよ。面子を立ててやる、実質は女が握るというのが日本の基本的社会構造だ。

 

現在開業している場所の自治会は「上石原」である。が、生まれ育った屋敷は「竹井」にある。

 

のぼり・くだりは大舩神社を中心に考えます。近づく時はのぼりを奏で、遠離る時は「くだり」を演奏します。大舩神社の大鳥居の前を登っていく時は演奏が、がらっと変わります。お囃子の親方の合図で「のぼり」から「くだり」に変わります。

国鉄(JRとも言う)の「のぼり」・「くだり」と同じ考え方です。

 

エピソード  2   行方不明事件

小学校に入った頃のことである。お祭りの前後には「ミカン箱」などを使って、だんじりを作って遊ぶのが流行っていた。当然の如く私も欲しかったが、親父に頼んだところで、とりつくしまもないは分かっていた。その頃、時々、我が家に顔を出していた岩井孝幸さんに頼んだ。おじさんは、不動産仲介業やら、配達業やら、何でもこなす便利屋さんだった。 ㊤(私の家の屋号・マルジョウとよむ)の不動産の管理もしてもらっていた。

約束をして、学校が終わってから遊びに行った。木を切り出して心棒を、ワッパを、そして押し木を作ってくれた。「タカボウ!オッカサンに断ってきたか?」と日が暮れる前に聞かれた。

当然、無断である。が、「ウン!言ってある」と返事をした。

夕ご飯までご馳走になってだんじりを抱えて戻っていくと、家の前に人だかりである。

「旦那様! タカチャンが孝幸さんと一緒に・・」

「奥さん  良かったね!見つかって!」

しまった。

とんでもないことになっている。

叱られる!

と思った。

こりゃ!拙い!!

どれだけ叱られたのかは覚えていないが、お姉ちゃんに「タカチャン!アンタどこでなにをしとったの?」「お母ちゃんがどえらあー心配してるよ」と窘められたことだけは良く覚えている。親父にどれだけ叩かれ、叱られたかは忘れてしまったが、歯を食いしばって耐えたのだろうね。泣き虫で、弱虫で、天邪鬼で、妙にひねくれた子供だった。今の自分(69歳)も好きになれないが、子供の頃の自分は大きっらいである。

 

エピソード  3

阿弥陀坂のお昼寝

5年に一度の当本組当番です。5年後は大学受験の一浪(ヒトナミと読む)でした。

勿論不参加でした。その5年後、大学5年生の時の話です。

大学山岳部の春山合宿は北アルプスの裏銀座縦走をした。合宿がはねて、その脚で何人かの山岳部の後輩が我が家に遊びに来ました。試楽も本楽も快晴の暖かい春日でした。

皆で参加して、だんじりを大舩神社に引き上げました。弘前の「ねぷたまつり」とは全く趣の異なる祭である。お昼の鯖の押し寿司と赤飯を頬張り、だんじりの感想を興奮気味に語り、ビールとお酒に心地よく酔っ払いました。そして勇壮にだんじりを降ろす様を見物に大舩神社まで行きました。阿弥陀坂を芦度が、黒瀬がだんじりをドスン・ドスンと揺らせながら降りていく様を、「すごいだろう」「すごいね」と眺めていると、「危ない!」と声が道路の反対側から聞こえます。振り向くと、後輩の1人「森」が酔っ払って阿弥陀坂の端っこで寝ていたのだ。その姿を道路の対岸で見物していた人達がだんじりを観たり、寝返りをして坂の端に体を寄せる様を観たりしていたのだ。そして、本当に危なくなってきたので声を掛けてくれた。

ところが私達からはだんじりを観るのに真剣だった。また、全く死角になっていて気がついていなかった。本人は全く悪びれるところはなく、「眠たくなったので寝転んだら、寝てしまった」と抗弁していた。今でも人騒がせなところがある。

 

エピソード  4   最後の組み立て(だんじり車庫が完成)、胴幕も新調

 平成3年が上石原で迎える最初の当本組だった。前年の秋に本郷のだんじり格納庫が大舩神社に完成した。前山だけを外してそのまま格納出来るようになった。が、去年宮嶋から受け継いだ時には分解して旧い倉庫に保存した。つまり今年が最後のだんじりの組み立てである。各々の材料にはマジックで、墨で使われる場所が記載さ入れているが、読んでも意味は不明だし、どこを指しているのかも分からない。

大きなプラモデルを組み立て説明書もないまま組み立てるような作業、ジグソーパズルをはめ込んでいくような難解な作業だった記憶がある。勿論私は全く分からない。

金子さんや、佐合さんなどのだんじりに詳しい、経験豊かで知識の豊富な人が指導されるのだが、される方には知識がない。チンプンカンプンだ。怒号が飛び交い、あれこれと指示が届くが夕方まで掛かった。部材の総数はいくつぐらいだったのか分からないがよくぞ作り上げたと感心する。同時に、だんじりを牽く綱をモチ米のワラで1本編んだ。50メートルぐらいの長さだろう。翌年から麻のロープに変わった。神社に奉納する注連縄飾りだけは、いまも自分達で打って造っている。

新楽の日は一日中雨だった。本楽の朝も降り続いていた。四郷の当本会議で「中止」が決められていたが、雨が上がってきたので急遽挙行することになった。役場前には集合しないでだんじりが仮止めしてある古彦商店の前から大舩神社に奉納した。

 

註 

 この頃は四月の第一土曜日・日曜日に行っていた。

 

エピソード  5  統 お囃子の鼓

 

 平成8年 統は10歳 小学校 3年生  お囃子の[鼓]をやらせてもらいました。

一緒に鼓を叩いたのは小栗健作・林俊一郎・福本航大君だった。

中学校2年以来のお囃子の稽古に私も足繁く通った。勿論私は見物だけです。そして稽古が終わった後、当本の金子さん、お囃子の頭の青木さんを始め、だんじりを語らせたら一晩中というだんじり大好き人間の人達と話し込んだ。

試楽も本楽も天気は良く、愉しいお祭りだった。私も2回目の当本組を経験し、少しづつではあるが、この祭の面白さ、楽しさが分かるようになった。一番強く思ったことは大人が真剣になる祭だ。大の大人の男が中心になって、そして女性が一致団結してサポートして執り行う。しかもそれは、5年に一回の素人集団だから沢山の人から多くのことを学び、失敗があるので愉しい。この時は、伊藤義行君と同級生の大澤茂君の2人が組み世話役を担っていた。二人とも根っからのお祭り好きのお祭り男である。知識も豊富だった。お酒を酌み交わして喋らせたら終わりがなかった。新楽の午前中の後半にチョットしたパプニングがあった。大舩神社から荒川橋の交差点までは緩い下りである。いつの間にか加速がついてしまう。荒川橋東の交差点を右折して荒川橋に向かうと下りの傾斜がきつくなる。ブレーキ役の後綱を出すのが通例である。処が、今年はブレーキ役の後綱を出さないまま荒川橋に突っ込んだ。これは、結構やばかった。梃子を拾いながら、「だんじり」を見ると「ドーン・ドーン」と飛び跳ねている。後山(うしろやま)の上下の振動が激しかった。ものすごい地響きを立てて疾走していた。怖くないのかなぁと感心していた。後日談では十六人衆は「死にものぐるいだった」「欄干に突っ込む」と観念したそうだ。安瀬第一ではあるが、勇壮でスリリングでなければ八百津のだんじり祭ではないという時代の若さがあったのだろう。20年以上前のことである。

 

エピソード   6  本楽祭を第2日曜日と決定する

平成13年  統は帝京中学2年生 太鼓(小栗健作・福本航大君と共に)

   陽は保育園 小学校 1年  鼓(金子敏也・リバモア海・酒向・長谷川)

       私は自治会の公民館長

上石原お祭り当本

   当本 平岡時夫 副当本 丹羽尚毅   組世話役  岩井進  玉木伸秀

 2月の当本寄合の折りに祭の日程のことが協議された。第1日曜日が1日、第1土曜日が7日、第2日曜日が8日、第2土曜日が14日、第3日曜日が15日(今年と同じ暦)

どこを基準として決めるのかが揉めた。行政としては久田見祭と重ねたくない。八百津祭の翌週に久田見祭を執り行いたい。提案としては7日・8日に八百津祭を、14日・15日の久田見祭というものであった。が、7,8年前に四郷の当本寄り合いと祭保存会で決められたことは以下の通りだった。

「第1土曜日に試楽祭から第2土曜日に試楽祭に変更」だった。

それは、科学的な裏付けがあった。古田和男祭保存会会長(その当時)と大山敦さんが名古屋の気象庁に行き、観測が残っている範囲で調べたところ第2土曜日が一番天気が良い。「晴」が多い。大山さんから十分な説明を受け、当本寄り合いの結論は、今年はこれまでの経過とデーターから第2土曜日と第3日曜日にやります。但し、次回からは久田見との重なるのは避けます。第1土曜日と第2日曜日を選択します。と返事をした。四郷の当本を勤められた平岡さんは随分と苦労されたことと思う。なかなか意見がまとまらなかった。

 お囃子の稽古の後、役員会の後、毎回のように飲みに行きました。フィリッピンパブとルーマニアキャバレーが流行していた。ピチピチとした肢体、西洋人独特の碧眼と金髪、男を誘うほのかな甘い香水の香り、「タカさん 今度はいつ来てくれる?」と片言の、覚えたばかりの日本語で身を寄せながら誘われると、すっかり虜になってしまった。「プリン・プリン」のはち切れんばかりのオッパイをこれでもかと寄せてくる。こちらからタッチに行くと「ダメよ」「お触りは御法度」とかわされ、いなされる。「元気ね」と笑いながらさらっと触られるとお酒の力も借りてすっかり有頂天、夢見心地に陥った。にわかキリスト教徒に改宗して多治見の修道院に会いに行く輩もいた。

試楽祭も本楽祭も良い天気だった。快晴・試楽は寒かった。本楽は桜満開の第3日曜日

 

エピソード   7   芦度・黒瀬に倣って提灯を掲げた

平成 18年   統は愛知医大 2年 後押木 陽 小学校 6年生  太鼓

         姉(鈴代)が東京から遊びに来た

上石原お祭り役員 

    当本平岡康夫  副当本 大澤茂   組世話役  纐纈清一  臼田雅彰

臼田組世話役の尽力で色々と改革を施した。一番大きな功績は提灯を各家の玄関先に掲げたことである。夜、道路の両側に提灯が、灯が並ぶのは風情がある。自治会としての一体感が高まる。好評だった。袢纏も揃えることにした。

前夜祭(宵宮)   7日

 今回から始まった宵宮です。これも組世話役さんの発案です。結構沢山の人が参加してくれ盛り上がりました。他の自治会でも始まると嬉しい。

試楽祭       8日  悪天候だった。高砂橋では横殴りの氷雨です。雪が舞った。午後からはものすごい黄砂です。八百津大橋では風が強かったので三台のだんじりが並び揃うことはかなわなかった。この時、芦度組で転倒事故があった。山見が転倒し、ドミノで3人が倒れた。有り難いことに、たいした事故にはならなかった。

本楽祭       9日 寒い朝だった。桜は満開に近いが、7分咲きです。本郷のだんじりは三勝屋の電線に前山を引っかけてしまい、竹が折れてしまった。修復に結構時間が掛かりました。どんどん桜が咲き、大舩神社は桜と人で埋め尽くされた。

 

エピソード   8    タカさん当本を勤める

平成21年  12月  上石原自治会臨時大常会

 ここで私(タカさん)は、23年(2011年)の上石原自治会が当本組の折の当本役に選挙で選出される。満場一致だった。副当本には岩井進君、組世話役には佐合恭平と小栗和延の両名も選ばれる。

就任の挨拶では、こんな話をした。

皆さん瞑目して下さい。

本楽は雲一つない快晴です。溢れんばかりに膨れあがった大舩神社の境内。阿弥陀坂を本郷組のだんじりが威勢良く、掛け声と共に駆け上がります。勢いが緩む度にうねりの様に鬨の声が響き渡ります。[ヤァーイ」「ヤァーイ」そして阿弥陀坂から境内に差し掛かります。その時前山のヒガクシが桜の枝に当たります。もう一段だんじりが上がると、枝が跳ねて、桜吹雪になる。お囃子連の肩に十六人衆の肩に花びらが舞う。私が夢に見る最高の演出の場はここにあります。クライマックスの始まりです。綱を引く人、十六人衆、お囃子連、世話役、そして多くの観衆・・全てが揃って始めてなしえることです。

この何物にも代えがたい珠玉の時を目指してこれからの一年半、皆さんとともに歩み始めます。夢の実現を目指して頑張りましょう。

こうして、一年半のプロジェクトは始まった。

平成22年 4月   山受け

  宮嶋組からだんじりを受け取る。その晩、自治会の皆さんに集まって貰って激励会を開催する。これまでの当本さん、その奥さん、役員さんの労を労い、来年の人事を話し合いました。人1人ずつにそれぞれの意見があり、それらをまとめて意思の統一を図るのは大変であろう。が、やるのだと思いを新たにする。

 

                     平成30円4月12日

                                脱稿

平成23年のことは別項で述べます。写真集を出版しているので、スキャナーを使って再掲載予定です。

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